一人の人生を読む
堺の和菓子屋で、本を読む
1878年12月7日、与謝野晶子は堺県堺区、現在の大阪府堺市に生まれた。本名は鳳志よう。父・宗七と母・津祢の家は、和菓子商の駿河屋を営んでいた。
後世の晶子は、恋愛を大胆に歌った『みだれ髪』や「君死にたまふことなかれ」の作者として知られる。しかし、少女時代の彼女が最初から「新しい女性」だったわけではない。宿院尋常小学校から高等科へ進み、のちに堺女学校で学ぶ一方、家では父の蔵書にあった古典や歴史の本を読んだ。後年には、紫式部を十一、二歳の頃からの「恩師」のように感じていたと振り返っている。
与謝野晶子という人物を考えるとき、恋愛や夫・鉄幹との出会いから物語を始めると、その前にあった十数年を見落としてしまう。彼女の言葉の基礎には、堺の商家で働く生活と、店の外へ出なくても別の時代へ行ける読書の時間があった。
16歳、作品が雑誌に載る
1895年、16歳の志ようは『文芸倶楽部』に「鳳晶子」の名で短歌を掲載された。まだ『明星』もなく、与謝野鉄幹とも会っていない時期である。
その後、堺敷島会などで歌を発表し、1899年には関西青年文学会堺支会へ入った。ここで新体詩や短歌を発表し、同世代の文学青年たちと接するようになる。翌1900年には東京新詩社の社友となり、創刊された『明星』が新しい発表の場になった。
文学史では作家一人の才能が強調されやすい。しかし、書いたものを読んでくれる仲間、雑誌、編集者、批評の場がなければ、才能は社会の中に姿を現しにくい。晶子の場合も、堺から関西青年文学会、そして東京新詩社へと、言葉を置ける場所が少しずつ広がっていった。
21歳、鉄幹と出会う
1900年8月、大阪を訪れた与謝野寛、号・鉄幹と晶子は初めて会う。鉄幹はすでに東京新詩社を率い、『明星』を中心に浪漫主義の文学運動を進めていた。
二人の関係を「運命の恋」とだけ呼ぶと、話はきれいになる。しかし現実にはもっと複雑だった。1901年6月に晶子が上京した時点で、鉄幹にはまだ妻がいた。同年9月に鉄幹は先妻・林滝野と離婚し、10月に晶子と結婚する。
ここには恋愛だけでなく、当時の結婚制度、家族、文学結社の人間関係が重なっている。晶子自身が選んだ道であることは確かだが、その選択を「自由な女性が古い家を飛び出した」という一文だけにすると、人間関係の摩擦が消えてしまう。
22歳、『みだれ髪』
1901年8月、結婚の少し前に第一歌集『みだれ髪』が刊行された。まだ22歳である。
恋愛、身体、若さ、自意識。それらを正面から短歌へ持ち込んだ作品は強い反響を呼び、晶子の名前を一気に広めた。女性が自らの恋愛感情や身体感覚を積極的に表現したことは、後世から「女性解放」と結びつけて読まれるようになる。
ただ、『みだれ髪』を最初から社会運動の宣言書だったと考える必要はないだろう。まずそこにあるのは、一人の若い歌人が、それまで自分の内側にあった感覚を、自分の言葉で外へ出したという出来事である。それが結果として、当時の女性表現の範囲を広げることになった。
妻になり、母になり、それでも書く
結婚後の晶子は、歌人であると同時に、非常に大きな家庭の中心にもなった。堺市は彼女を「11人の子どもたちの母」と紹介している。出生数の数え方には資料差があるが、少なくとも多数の子どもを育てながら、短歌、詩、評論、翻訳、新聞や雑誌への寄稿を続けたことは確かである。
ここで重要なのは、「母なのに書いた」という驚き方だけではない。書くことは表現であると同時に、仕事でもあった。与謝野家の生活にとって晶子の原稿料は重要な収入源であり、彼女は家族を支える労働者でもあった。
後に晶子が女性の経済的自立を強く主張する背景を、家庭生活だけから説明することはできない。それでも、夫婦の生活、出産、育児、締切、家計が同じ時間の中で重なっていた事実は、その言葉を抽象的な思想だけではなく見せてくれる。
25歳、「君死にたまふことなかれ」
1904年、日露戦争が続くなか、晶子は『明星』に「君死にたまふことなかれ」を発表した。旅順攻囲戦に参加していた弟を案じて書いた長詩だった。
この詩は現在、代表的な反戦詩として知られている。当時も大町桂月が国家への義務を軽視する危険な思想だと批判し、論争になった。晶子は『明星』の「ひらきぶみ」で反論し、人に「死ね」と求める言葉の方を問題にした。
ここから「晶子は生涯一貫した反戦主義者だった」と結論づけたくなる。しかし、一人の人生を後世の一つの作品だけで固定するのは危険である。この問題は、彼女の晩年でもう一度戻ってくる。
32歳、「山の動く日」
1911年、平塚らいてうらが『青鞜』を創刊した。その創刊号に晶子も詩を寄せる。「山の動く日きたる」という冒頭は、のちに日本の女性史を象徴する言葉の一つとして繰り返し引用されることになる。
『みだれ髪』の頃、晶子の新しさは恋愛や身体の自己表現に強く現れていた。それから十年ほどたつと、彼女の言葉は教育、労働、女性の社会的地位といった問題へ明確に広がっていた。
しかし晶子の女性論は、現在の私たちが期待する結論と常に同じではない。その違いが最もはっきり現れるのが、数年後の母性保護論争である。
33歳、子どもを残してヨーロッパへ
1911年、鉄幹はヨーロッパへ渡った。翌1912年5月、晶子は夫を追って日本を出る。夫婦そろって出発したのではない。東京に子どもたちを残し、晶子自身がシベリア鉄道でヨーロッパへ向かった。
パリでは、働く女性たちの生活や都市の文化を観察し、ロダンとも会った。滞在について夫妻は後に『巴里より』へまとめている。子どもたちへの思いが強くなった晶子は10月に先に日本へ戻り、鉄幹は翌年帰国した。
「母なら子どものそばにいるべきだ」「作家なら仕事を優先すべきだ」という二択は、彼女の人生にはあまり当てはまらない。子どもを残して海を渡ったことも、早く子どもたちのもとへ帰ったことも、同じ人間の行動だった。
「自立」とは、誰にも頼らないことなのか
1918年から翌年にかけて、晶子は平塚らいてう、山川菊栄、山田わからと「母性保護」をめぐって論争した。争点の一つは、妊娠や出産、育児によって働けない女性を国家が経済的に支えるべきかどうかである。
晶子は、女性は精神的にも経済的にも自立すべきだと考えた。夫の収入を当然の前提にすることにも、母であることを理由に国家へ依存することにも厳しかった。この主張だけを読むと、かなり徹底した自己責任論にも見える。
ただし、彼女は貧困などによって母としての生活を成り立たせられない人への国家の保護まで否定していたわけではない。自ら働き自立できる可能性を持つ人が、受動的に依存することを問題にしていたのである。
しかも、この言葉を書いたのは、実際に多数の子どもを育てながら働き続けた女性だった。だからこそ説得力を感じる部分もあれば、現実には誰もが晶子のように働けるわけではないという平塚側の反論にも重さがある。ここには、百年前の論争というより、今も残る問題がある。
42歳、学校をつくる
1921年、晶子は西村伊作、石井柏亭、河崎なつ、夫の寛らとともに文化学院の設立に参加し、学監となった。
文化学院は自由や個性を重視し、男女共学を理念とした。当時の学校制度から見ればかなり異質な教育構想である。ただし、「日本初の男女共学校を1921年に開校した」と単純に書くと少し違う。晶子自身の設立文によれば、開校時の中学部はまず女子だけを募集し、男子は将来の大学部成立後に募集する計画だった。
重要なのは看板より、教育を国家や学校の都合に合わせるのではなく、個々人の能力や希望から考えようとしたことだろう。晶子にとって女性の自立は、評論の中の主張だけではなく、学校を実際につくる仕事へ移っていった。
原稿数千枚が燃える
晶子は少女時代から『源氏物語』に親しみ、現代語訳にも長い時間を費やした。ところが1923年の関東大震災で、進めていた完訳原稿数千枚が文化学院とともに焼失する。
書き手にとって、長年積み重ねた原稿を一度に失う出来事は重い。けれども晶子はそこで訳業を終えなかった。その後も古典研究と翻訳を続け、後年『新新訳源氏物語』へつながっていく。
若い頃の晶子を象徴するのが『みだれ髪』だとすれば、後半生の晶子には、失った古典の仕事をもう一度積み上げる時間もあった。情熱的な一瞬だけではなく、何十年も続く地味な仕事。こちらも同じ人間の一部である。
「反戦歌人」という像から、はみ出す
1904年の「君死にたまふことなかれ」は、晶子を反戦の象徴として記憶させた。しかし、彼女の戦争をめぐる言葉は、その後ずっと同じ場所に止まっていたわけではない。
1930年代には、「紅顔の死」「日本国民朝の歌」、のちの「日本新女性の歌」など、国家や軍事動員に近い文脈で読まれる作品も発表している。1904年の弟への切実な言葉と、後年の国家的な言葉との間には距離がある。
その距離を「晶子は結局、反戦ではなかった」と片付けるのも、「時代に強制されたから仕方がない」と消してしまうのも簡単すぎる。一人の人間の考えは、六十年以上の人生の間に変わる。矛盾することもある。Hegelroomで人物の人生を読む意味は、むしろその変化を消さないことにある。
63歳。ひとつの役割には収まらなかった
1935年、夫・寛が亡くなった。晶子はその後も文学と古典研究を続けたが、晩年には病によって活動を制約されるようになる。1942年5月29日、東京で死去した。満63歳だった。
彼女を「情熱の歌人」と呼うことは間違いではない。「女性解放の先駆者」も、「君死にたまふことなかれ」の作者も、確かに与謝野晶子である。しかし、そのどれか一つだけにすると、ほかの時間が消える。
堺の商家で本を読んだ少女。22歳で『みだれ髪』を出した歌人。多数の子どもを育てながら原稿を書いた母。家計を支えた職業人。国家への依存を批判した論客。学校をつくった教育者。焼けた『源氏物語』を訳し直した古典研究者。そして、若い頃とは異なる戦争の言葉を書いた晩年の詩人。
すべて同じ人である。
人生を読むとき、きれいな一貫性は分かりやすい。しかし人間そのものは、たいていそれほど整ってはいない。与謝野晶子の63年は、そのことをかなりはっきり見せてくれる。
