一人の人生を読む
16歳、美術を売る仕事に就く
1853年3月30日、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、オランダ南部ズンデルトの牧師館に生まれた。父テオドルスは牧師、母アンナ・コルネリアは本や自然を好み、家には六人の子どもが育った。四歳下の弟テオドルス、通称テオ(Theo van Gogh)も、その一人だった。
ヴィンセントが最初に職業として接した絵は、自分で描くものではなく、値段をつけて客へ渡すものだった。1869年、16歳で伯父の縁があった美術商グーピル商会(Goupil & Cie)のハーグ支店に入り、のちにロンドン、パリへ移る。作品と顧客のあいだに立つ仕事を七年ほど続けたが、1876年に会社を去った。
その後の数年、教師助手、書店員、神学を志す受験生と、進路は定まらない。25歳でベルギーの炭鉱地帯ボリナージュ(Borinage)へ行き、伝道活動に携わったものの、ここでも職を得続けることはできなかった。家族は将来を心配し、ヴィンセント自身も、自分を何の役にも立たない人間だと感じていた。その時期に残った炭鉱夫や働く人々の素描が、次の仕事への細い道になった。
二人のあいだを行き来した50フラン
1880年6月、ヴィンセントはボリナージュからテオへ長い手紙を書いた。しばらく途絶えていた便りを再開し、同封されていた50フランを受け取ったことにも礼を述べている。この手紙は、のちに「画家ゴッホ」と呼ばれる十年の入口にある。27歳の彼はその年、絵を仕事にすると決め、人物の姿や遠近法を基礎から学び始めた。
兄弟の手紙は、生活の実務そのものでもあった。パリで画商として給料を得るテオが金を送り、ヴィンセントは家賃、食事、紙、絵具やカンヴァスに使う。制作した絵を送り、次に必要な画材を書き、読んだ本や見た作品、家族との衝突まで報告した。テオは資金提供者であると同時に、作品の受取人であり、ほとんど途切れることのない対話の相手になった。
支援は一度きりの贈り物ではない。およそ十年にわたる送金には、兄の生活と制作を毎月どう成り立たせるかという重さがあった。ヴィンセントは1888年、受け取った総額を約1万5000フランと見積もっている。二人のあいだには感謝だけでなく、支出、作品の売れ行き、将来をめぐる苛立ちもあった。それでも手紙と金と作品は、兄弟の住む町のあいだを行き来し続けた。
暗い食卓までの五年
画家になると決めても、すぐに今日知られる色彩へたどり着いたわけではない。ブリュッセルやハーグで人体を学び、モデル代が足りなければ身近な人を描いた。1883年末には両親の住むオランダのニューネン(Nuenen)へ戻り、織工や農民の手、顔、働く姿を繰り返し素描する。
1885年、32歳で『ジャガイモを食べる人々』(De aardappeleters)を仕上げた。ランプの下で一つの皿を囲む五人の画面は暗く、粗い。ヴィンセントは、土を掘ったのと同じ手で食べる人々を描こうとしていた。大作へ進む前に頭部を何十枚も習作し、構図を試したが、テオからは色の暗さや描写について厳しい反応も返ってきた。目指したものと、絵として相手に届くものは、まだ同じではなかった。
パリの同居で変わった色
1886年、33歳のヴィンセントは事前の相談も十分にないままパリへ着き、モンマルトルでテオとの同居を始めた。兄弟は同じ部屋と家計を共有することになる。画商として働く弟のもとには新しい絵と画家の情報が集まり、ヴィンセントは印象派、新印象派の画家たちと知り合った。日本の浮世絵も収集し、輪郭、平坦な色面、大胆な切り取り方を自分の画面で試した。
ニューネンの土色から、補色を並べる明るい色へ。自画像を多く描いたのも、描くべきモデルをいつでも雇える生活ではなかったからである。パリでの二年は技法を大きく動かした一方、狭い住まいで気性の激しい兄と暮らすテオには負担もかけた。作品を支える関係は、遠くから送金するだけの美談ではなく、日々の生活を分け合う関係でもあった。
黄色い家に、もう一脚の椅子を置く
1888年2月、35歳のヴィンセントは南フランスのアルル(Arles)へ移った。果樹園、麦畑、夜のカフェを描き、五月には「黄色い家」の一部を借りる。そこを一人の仕事場で終わらせず、画家たちが作品と費用を分かち合う場所にしたいと考えた。
最初に迎えようとしたのがポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)だった。ヴィンセントは来客用の部屋を整え、その壁に掛けるため『ひまわり』(Tournesols)の連作を描く。テオは兄へ送金するだけでなく、ゴーギャンの旅費や滞在をめぐる調整にも加わった。家、家具、絵、鉄道代まで含めて、共同制作の構想は具体的な出費を伴っていた。
ゴーギャンは十月に到着した。二人は並んで描き、絵について議論したが、生活と仕事の違いはしだいに大きな緊張になる。十二月、共同生活は破綻し、精神的な危機のなかでヴィンセントは左耳の一部を傷つけた。事件の細部には不明な点が残る。確かなのは、計画していた共同体が実現せず、入退院ののち、町で一人の生活を続けることが難しくなったことだ。
窓の外を、描ける日に描く
1889年5月、36歳のヴィンセントはサン=レミ(Saint-Rémy-de-Provence)の療養施設へ自ら入った。小さな寝室とは別に制作室を与えられ、庭、糸杉、オリーブ畑、窓から見える景色を描いた。『星月夜』(The Starry Night)もここで制作された一枚である。
ただし一年を切れ目なく描き続けられたわけではない。発作の最中や直後には制作できず、手紙さえ書けない期間があった。回復すると、戸外へ出られる範囲で描き、過去の素描や版画の複製をもとに室内でも仕事をした。当時の医師は発作を癲癇の一種と考えたが、残された記録から現代の病名を一つに定めることはできない。病気は絵を生む仕掛けではなく、ヴィンセントが仕事を続ける時間をたびたび断ち切った。
テオにも家庭ができた
ヴィンセントが療養していた同じ時期、テオの生活も変わっていた。1889年4月にヨー・ボンゲル(Jo Bonger)と結婚し、翌年一月には息子が生まれる。夫妻はその子にヴィンセント・ウィレムと名づけた。兄への支援を続けながら、テオは妻子の暮らしを担い、画商としての仕事にも不安を抱えていた。
1890年5月、ヴィンセントはパリで弟の新しい家庭を訪ねたあと、オーヴェル=シュル=オワーズ(Auvers-sur-Oise)へ移る。医師ポール・ガシェ(Paul Gachet)の近くに下宿し、麦畑、庭、家々、人の肖像を速い頻度で描いた。テオとヨーへ宛てた便りも続き、制作と将来の相談は最後まで家族の日常につながっていた。
7月27日、ヴィンセントは銃で胸を負傷し、二日後、駆けつけたテオに見守られて亡くなったとファン・ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)は説明している。37歳だった。何がその行動を決定したのかを、一通の手紙や一枚の絵だけで説明することはできない。『カラスのいる麦畑』も最晩年の一作だが、「最後の絵」や遺書ではない。
屋根裏に残った絵を、外へ運ぶ
兄の作品と手紙を引き継いだテオも、1891年1月に33歳で亡くなった。ヨーには幼い息子と大量の作品が残された。彼女はそれらをしまい込まず、展覧会へ貸し、売却し、画家や批評家とのつながりを作っていく。兄弟の手紙も整理し、1914年にオランダ語版を刊行した。
1905年、ヨーがアムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)で組織した回顧展には、400点を超える作品が並んだ。のちに息子ヴィンセント・ウィレムがコレクションを財団へ移し、1973年に開館したファン・ゴッホ美術館へつながる。ヴィンセントがテオへ送り続けた絵と手紙は、ヨーによって選ばれ、運ばれ、読者と観客の前へ置かれた。
16歳で絵を売る側に立ち、27歳で描く側へ移ったヴィンセントは、十年の制作のあいだにも何度も方法と場所を変えた。そのそばには、紙と絵具を買う金を送り、作品を受け取り続けた弟がいた。さらに二人の死後、その仕事を社会へ渡す人がいた。いま美術館で一枚の絵を見る時間の背後には、兄弟と一つの家族が、作品を次の場所へ送り続けた長い時間がある。



