Hegelroom / Person 008

Vincent van Gogh

画家 / オランダ / 1853–1890

弟へ届く手紙のそばで、画家になる十年が始まった。

1889年のヴィンセント・ファン・ゴッホの自画像
Vincent van Gogh / National Gallery of Art / Wikimedia Commons / CC0 1.0
1853Born
1890Died
37Age
画家Field

02 / Profile

ヴィンセント・ファン・ゴッホとは?

ヴィンセント・ファン・ゴッホは、画商や伝道者の道を離れ、27歳から約10年間を絵に注いだオランダ出身の画家。弟テオと交わした手紙、生活費と画材、各地で変わった仕事場を通して、その37年をたどる。

生誕
1853年3月30日
死去
1890年7月29日
年齢
37歳
出生地
ズンデルト(オランダ)
活動地域
オランダ、ベルギー、フランス
分野
画家

03 / Life

一人の人生を読む

16歳、美術を売る仕事に就く

1853年3月30日、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、オランダ南部ズンデルトの牧師館に生まれた。父テオドルスは牧師、母アンナ・コルネリアは本や自然を好み、家には六人の子どもが育った。四歳下の弟テオドルス、通称テオ(Theo van Gogh)も、その一人だった。

ヴィンセントが最初に職業として接した絵は、自分で描くものではなく、値段をつけて客へ渡すものだった。1869年、16歳で伯父の縁があった美術商グーピル商会(Goupil & Cie)のハーグ支店に入り、のちにロンドン、パリへ移る。作品と顧客のあいだに立つ仕事を七年ほど続けたが、1876年に会社を去った。

その後の数年、教師助手、書店員、神学を志す受験生と、進路は定まらない。25歳でベルギーの炭鉱地帯ボリナージュ(Borinage)へ行き、伝道活動に携わったものの、ここでも職を得続けることはできなかった。家族は将来を心配し、ヴィンセント自身も、自分を何の役にも立たない人間だと感じていた。その時期に残った炭鉱夫や働く人々の素描が、次の仕事への細い道になった。

二人のあいだを行き来した50フラン

1880年6月、ヴィンセントはボリナージュからテオへ長い手紙を書いた。しばらく途絶えていた便りを再開し、同封されていた50フランを受け取ったことにも礼を述べている。この手紙は、のちに「画家ゴッホ」と呼ばれる十年の入口にある。27歳の彼はその年、絵を仕事にすると決め、人物の姿や遠近法を基礎から学び始めた。

兄弟の手紙は、生活の実務そのものでもあった。パリで画商として給料を得るテオが金を送り、ヴィンセントは家賃、食事、紙、絵具やカンヴァスに使う。制作した絵を送り、次に必要な画材を書き、読んだ本や見た作品、家族との衝突まで報告した。テオは資金提供者であると同時に、作品の受取人であり、ほとんど途切れることのない対話の相手になった。

1888年のテオ・ファン・ゴッホの肖像写真
1888年の弟テオ・ファン・ゴッホ/Wikimedia Commons — Public domain

支援は一度きりの贈り物ではない。およそ十年にわたる送金には、兄の生活と制作を毎月どう成り立たせるかという重さがあった。ヴィンセントは1888年、受け取った総額を約1万5000フランと見積もっている。二人のあいだには感謝だけでなく、支出、作品の売れ行き、将来をめぐる苛立ちもあった。それでも手紙と金と作品は、兄弟の住む町のあいだを行き来し続けた。

暗い食卓までの五年

画家になると決めても、すぐに今日知られる色彩へたどり着いたわけではない。ブリュッセルやハーグで人体を学び、モデル代が足りなければ身近な人を描いた。1883年末には両親の住むオランダのニューネン(Nuenen)へ戻り、織工や農民の手、顔、働く姿を繰り返し素描する。

1885年、32歳で『ジャガイモを食べる人々』(De aardappeleters)を仕上げた。ランプの下で一つの皿を囲む五人の画面は暗く、粗い。ヴィンセントは、土を掘ったのと同じ手で食べる人々を描こうとしていた。大作へ進む前に頭部を何十枚も習作し、構図を試したが、テオからは色の暗さや描写について厳しい反応も返ってきた。目指したものと、絵として相手に届くものは、まだ同じではなかった。

暗い室内で食卓を囲む農民を描いた『ジャガイモを食べる人々』
『ジャガイモを食べる人々』、1885年/Wikimedia Commons — Public domain

パリの同居で変わった色

1886年、33歳のヴィンセントは事前の相談も十分にないままパリへ着き、モンマルトルでテオとの同居を始めた。兄弟は同じ部屋と家計を共有することになる。画商として働く弟のもとには新しい絵と画家の情報が集まり、ヴィンセントは印象派、新印象派の画家たちと知り合った。日本の浮世絵も収集し、輪郭、平坦な色面、大胆な切り取り方を自分の画面で試した。

ニューネンの土色から、補色を並べる明るい色へ。自画像を多く描いたのも、描くべきモデルをいつでも雇える生活ではなかったからである。パリでの二年は技法を大きく動かした一方、狭い住まいで気性の激しい兄と暮らすテオには負担もかけた。作品を支える関係は、遠くから送金するだけの美談ではなく、日々の生活を分け合う関係でもあった。

黄色い家に、もう一脚の椅子を置く

1888年2月、35歳のヴィンセントは南フランスのアルル(Arles)へ移った。果樹園、麦畑、夜のカフェを描き、五月には「黄色い家」の一部を借りる。そこを一人の仕事場で終わらせず、画家たちが作品と費用を分かち合う場所にしたいと考えた。

最初に迎えようとしたのがポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)だった。ヴィンセントは来客用の部屋を整え、その壁に掛けるため『ひまわり』(Tournesols)の連作を描く。テオは兄へ送金するだけでなく、ゴーギャンの旅費や滞在をめぐる調整にも加わった。家、家具、絵、鉄道代まで含めて、共同制作の構想は具体的な出費を伴っていた。

アルルでヴィンセントが借りた黄色い家と通りを描いた作品
『黄色い家(通り)』、1888年/Wikimedia Commons — Public domain

ゴーギャンは十月に到着した。二人は並んで描き、絵について議論したが、生活と仕事の違いはしだいに大きな緊張になる。十二月、共同生活は破綻し、精神的な危機のなかでヴィンセントは左耳の一部を傷つけた。事件の細部には不明な点が残る。確かなのは、計画していた共同体が実現せず、入退院ののち、町で一人の生活を続けることが難しくなったことだ。

窓の外を、描ける日に描く

1889年5月、36歳のヴィンセントはサン=レミ(Saint-Rémy-de-Provence)の療養施設へ自ら入った。小さな寝室とは別に制作室を与えられ、庭、糸杉、オリーブ畑、窓から見える景色を描いた。『星月夜』(The Starry Night)もここで制作された一枚である。

ただし一年を切れ目なく描き続けられたわけではない。発作の最中や直後には制作できず、手紙さえ書けない期間があった。回復すると、戸外へ出られる範囲で描き、過去の素描や版画の複製をもとに室内でも仕事をした。当時の医師は発作を癲癇の一種と考えたが、残された記録から現代の病名を一つに定めることはできない。病気は絵を生む仕掛けではなく、ヴィンセントが仕事を続ける時間をたびたび断ち切った。

サン=レミで描かれた、渦巻く夜空と糸杉の『星月夜』
『星月夜』、1889年/Wikimedia Commons — Public domain

テオにも家庭ができた

ヴィンセントが療養していた同じ時期、テオの生活も変わっていた。1889年4月にヨー・ボンゲル(Jo Bonger)と結婚し、翌年一月には息子が生まれる。夫妻はその子にヴィンセント・ウィレムと名づけた。兄への支援を続けながら、テオは妻子の暮らしを担い、画商としての仕事にも不安を抱えていた。

1890年5月、ヴィンセントはパリで弟の新しい家庭を訪ねたあと、オーヴェル=シュル=オワーズ(Auvers-sur-Oise)へ移る。医師ポール・ガシェ(Paul Gachet)の近くに下宿し、麦畑、庭、家々、人の肖像を速い頻度で描いた。テオとヨーへ宛てた便りも続き、制作と将来の相談は最後まで家族の日常につながっていた。

7月27日、ヴィンセントは銃で胸を負傷し、二日後、駆けつけたテオに見守られて亡くなったとファン・ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)は説明している。37歳だった。何がその行動を決定したのかを、一通の手紙や一枚の絵だけで説明することはできない。『カラスのいる麦畑』も最晩年の一作だが、「最後の絵」や遺書ではない。

屋根裏に残った絵を、外へ運ぶ

兄の作品と手紙を引き継いだテオも、1891年1月に33歳で亡くなった。ヨーには幼い息子と大量の作品が残された。彼女はそれらをしまい込まず、展覧会へ貸し、売却し、画家や批評家とのつながりを作っていく。兄弟の手紙も整理し、1914年にオランダ語版を刊行した。

1905年、ヨーがアムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)で組織した回顧展には、400点を超える作品が並んだ。のちに息子ヴィンセント・ウィレムがコレクションを財団へ移し、1973年に開館したファン・ゴッホ美術館へつながる。ヴィンセントがテオへ送り続けた絵と手紙は、ヨーによって選ばれ、運ばれ、読者と観客の前へ置かれた。

16歳で絵を売る側に立ち、27歳で描く側へ移ったヴィンセントは、十年の制作のあいだにも何度も方法と場所を変えた。そのそばには、紙と絵具を買う金を送り、作品を受け取り続けた弟がいた。さらに二人の死後、その仕事を社会へ渡す人がいた。いま美術館で一枚の絵を見る時間の背後には、兄弟と一つの家族が、作品を次の場所へ送り続けた長い時間がある。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1853年3月30日0歳

    オランダ南部ズンデルトに生まれる

  2. 186916歳

    美術商グーピル商会で働き始める

  3. 187825歳

    ベルギーのボリナージュで宗教活動に関わる

  4. 188027歳

    画家になることを決め、弟テオからの支援を受けながら制作を始める

  5. 188532歳

    『ジャガイモを食べる人々』を描く

  6. 188633歳

    パリへ移り、テオと同居。印象派や新印象派、日本の浮世絵などに接する

  7. 188835歳

    アルルへ移り、『ひまわり』などを制作。年末に左耳の一部を傷つける

  8. 188936歳

    サン=レミの療養施設へ自ら入院し、制作を続ける

  9. 189037歳

    オーヴェル=シュル=オワーズへ移り、死の直前まで多数の作品を描く

  10. 1890年7月29日37歳

    銃創を受けた二日後に死去する

  11. 1905死後

    ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルがアムステルダムで大規模な回顧展を組織する

05 / Works

主な作品

暗い室内で食卓を囲む農民を描いた『ジャガイモを食べる人々』
Vincent van Gogh / Wikimedia Commons / Public domain
01

油彩 / 1885

ジャガイモを食べる人々

ニューネン時代の代表作。後年の鮮やかな色彩とは異なる、暗い色調の時期を示す。

サン=レミで描かれた、渦巻く夜空と糸杉の『星月夜』
Vincent van Gogh / Wikimedia Commons / Public domain
03

油彩 / 1889

星月夜

サン=レミ療養中の作品。病気そのものを創作の原因とするのではなく、状態が許す時期に制作を続けた一例として見る。

06 / Conditions

ヴィンセント・ファン・ゴッホの人生をつくったもの

  • 01

    遅い職業転換

    画商、教師、書店員、宗教活動を経て、27歳でようやく画家になると決めた。

  • 02

    テオとの協働

    弟テオの金銭的・実務的・感情的支援が、約10年間の制作を続ける条件の一つになった。

  • 03

    中断と再開

    発作が制作を止めた時間と、回復後に仕事へ戻った時間の両方をたどる。

  • 04

    死後の評価形成

    死後、義妹ヨーが作品を展示し、販売し、手紙を刊行したことで、作品は社会へ残されていった。

07 / Read more

もっと知る

書簡

ゴッホの手紙

ヴィンセント・ファン・ゴッホ

弟テオとのやり取りから、制作、金銭、将来への考えを本人の言葉で読むための中心資料。

アーカイブ

ファン・ゴッホ書簡アーカイブ(Vincent van Gogh: The Letters)

ファン・ゴッホ美術館などが公開する書簡資料。原文・翻訳・注釈から制作や生活の文脈を確認できる。

美術館

ファン・ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)

作品、年譜、病歴に関する研究、ヨーによる死後の評価形成まで確認できる。