Hegelroom / Person 004

Hideyo Noguchi

医学者 / 日本 / 1876–1928

努力だけでは海を渡れなかった。科学者の人生は、正しかった研究だけでもできていない。

野口英世の肖像
Wikimedia Commons / 野口英世記念館資料 / Public domain
1876Born
1928Died
51Age
医学者Field

02 / Profile

野口英世とは?

野口英世は、福島に生まれ、左手の火傷と貧しい家計のなかで学び、24歳で渡米した医学者・細菌学者。ロックフェラー医学研究所で梅毒などの研究に成果を上げる一方、黄熱病の病原体をめぐる説は後に誤りと判明した。成功した研究と失敗した研究の両方を残した科学者の生涯をたどる。

生誕
1876年11月9日
死去
1928年5月21日
年齢
51歳
出生地
福島県三ツ和村三城潟(現・猪苗代町)
活動地域
日本、アメリカ、西アフリカ
分野
医学者、細菌学者

03 / Life

一人の人生を読む

1歳半、左手を焼く

1876年11月9日、野口英世は福島県三ツ和村三城潟、現在の猪苗代町に生まれた。幼い頃の名は清作。家は裕福ではなく、父佐代助と母シカのもとで育った。

1歳半ほどの1878年、清作は囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う。指は癒着し、手の機能には大きな制約が残った。後世の伝記では、この事故から医学者・野口英世の人生が始まったかのように描かれることが多い。しかし、事故そのものが将来を決めたわけではない。重要なのは、その後に誰が彼の学ぶ機会をつくり、誰が手術の機会を与え、本人がその機会をどう使ったかである。

少年時代の清作は学校でよく学んだ。高等小学校への進学を支えたのが教師の小林栄だった。小林は進学を勧め、学費の援助もしたとされる。野口の人生を「貧困の中から自力で這い上がった」とだけ説明すると、この時点ですでに事実から少し離れる。本人の努力は大きかった。それと同時に、他者が彼に時間と金を渡していた。

15歳、左手の手術を受ける

1892年、15歳の清作は会陽医院の医師・渡部鼎の手術を受ける。左手の指の一部が動くようになり、物を持つ機能も改善した。野口英世記念会の伝記では、この経験への感動が医学を志すきっかけになったと説明されている。

本人の内面を後から完全に確かめることはできない。ただ、翌1893年、清作が会陽医院に書生として入り、医学と語学を学び始めたことは確かである。手術を受ける患者だった少年が、その病院で医学を学ぶ側へ移った。

この時期、彼は医学だけでなく英語、ドイツ語、フランス語などにも力を入れたとされる。後の海外生活を考えれば、医学知識だけではなく「別の場所へ行くための言葉」を身につけていた時期でもあった。

19歳、上京する

1896年9月、清作は医術開業試験を受けるため東京へ向かった。旧Hegelroomの記事では上京を1893年としていたが、1893年は会陽医院に入った年であり、上京はその3年後である。

東京での生活を支えた人物の一人が、歯科医の血脇守之助だった。清作は高山歯科医学院で学僕として働きながら受験勉強を続ける。1896年10月に前期試験、翌1897年10月には後期試験に合格し、20歳で医師資格を得た。

ここまでの経歴だけを見ると、身体の障害と貧困を努力によって克服した物語に見える。しかし実際には、小林の学資、渡部の手術と教育、血脇の生活支援と人脈が重なっている。努力だけでも、支援だけでも説明できない人生だった。

21歳、医師資格を取ったのに、開業しない

資格を取った野口は、患者を診る開業医にはならなかった。1898年、伝染病研究所に入り、細菌学の研究へ進む。

野口英世記念会は、より多くの人を救うため病気の原因を研究する道を選んだ、と説明している。これは彼の人生を理解する有力な見方ではある。ただ、左手の状態、開業資金、研究への関心など複数の条件があった可能性もあり、理由を一つだけに決める必要はないだろう。

この頃、清作は「英世」へ改名している。記念館資料によれば、坪内逍遥の『当世書生気質』に、自分とよく似た名前の「野々口精作」という医学生が登場し、その人物が堕落していくことを嫌ったからだという。

名前を変えれば人間そのものが変わるわけではない。それでも、まだ20代前半の青年が、自分がどういう人物になるのかをかなり強く意識していたことは感じられる。清作から英世へ。人生を自分で編集しようとした、小さな転換だった。

他人の金と信用で、海を渡る

1899年、野口は日本を訪れていたアメリカの病理学者サイモン・フレクスナーの案内と通訳を務めた。この出会いが、翌年の渡米につながっていく。

1900年12月、24歳の野口はアメリカへ向かった。しかし、その渡米を「貧しい青年が自力で夢を実現した」と書くことはできない。東京歯科大学の資料によれば、血脇守之助のつてで300円の渡航費を用意してもらったにもかかわらず、野口は出発前の横浜での送別会でその大部分を使ってしまった。血脇は改めて高利貸しから金を借り、渡航費を工面したという。

渡米前の婚約と金銭をめぐっては、さらに派手な逸話も多い。ただし金額や経緯には伝記による違いがある。本稿では、機関資料で比較的確認しやすい血脇の支援を中心に見ておきたい。

この話を「だらしない天才」の面白い逸話だけで終わらせると、重要なものを見落とす。野口が海を渡れたのは、本人の野心と行動力だけではない。何度失敗してもなお、彼に金を貸し、信用を差し出す人がいた。その信用もまた、彼のキャリアを動かした資源だった。

24歳、アメリカで研究者になる

1900年12月30日、野口はフィラデルフィアに到着し、フレクスナーを訪ねた。ペンシルベニア大学で蛇毒の研究に入り、短期間で研究成果を発表する。1903年にはデンマークの国立血清研究所で学び、1904年からロックフェラー医学研究所に所属した。

ロックフェラー医学研究所にあった野口英世の研究室
野口英世の研究室。Wikimedia Commons / Public domain

ロックフェラー医学研究所は、設備、研究資金、試料、同僚、出版の場を備えた当時最先端の研究組織だった。野口はそこで、蛇毒、梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病など、次々と異なる感染症へ研究対象を広げていく。

その研究量は非常に多い。野口英世記念会は、生涯の和文・欧文論文を200編以上としている。猛烈な実験と執筆は、彼の国際的評価をつくった大きな理由の一つだった。

36歳、梅毒研究で大きな成果を得る

野口の仕事の中で、現在でも医学史上重要な成果として残っているものの一つが神経梅毒の研究である。1913年、野口とJoseph W. Mooreは、進行麻痺患者の脳組織から梅毒の原因菌Treponema pallidumを確認した。梅毒が脳や神経系の深刻な症状を引き起こすことを示す重要な証拠となった。

この時期の野口は世界的な研究者として認識されるようになる。Nobel Prizeの推薦記録にも彼の名前は繰り返し現れ、1913年から1927年までに24件の推薦が確認できる。

ただし、ここにも注意が必要である。「ノーベル賞に24回ノミネートされた」という言葉だけを見ると、委員会が24回、彼を最終候補として認めたように聞こえる。実際には24件の推薦状が提出されたという意味であり、推薦者が評価した研究の中には、後に誤りと判明した黄熱病説も含まれている。名声と科学的な正しさは、必ずしも同じではない。

成功の中に、危うさもあった

野口の梅毒研究には別の側面もある。彼はTreponema pallidumの培養に成功したと報告し、大きな評価を受けた。しかし、この培養結果は後の研究者が再現できず、現在では当時の主張をそのまま確立した事実として扱うことはできない。

さらに1911年、野口は梅毒診断のためのルエチン皮内反応を研究した。本人の論文によれば、調べたのは400例。その対照群には46人の「正常者」が含まれ、その多くは2歳から18歳の子どもだった。ほかにも非梅毒性疾患を持つ患者100人が対照として使われている。

ここで誤解してはいけないのは、ルエチンによって子どもたちへ梅毒そのものを感染させたわけではないことである。使用したのは殺した培養物から作った診断用の抽出物だった。問題は別にある。本人に治療上の利益がない研究目的の注射を、健康な子どもを含む人々に行ったことだ。

現在のIRBやインフォームド・コンセントの制度が整うのは、ずっと後のことである。一方で、20世紀初頭にも人体実験への批判や同意をめぐる議論はすでに存在した。「昔だから仕方がなかった」で片づけることも、「現在の制度だけを基準に断罪する」ことも、どちらも歴史を単純にしすぎる。

科学者を評価するとき、成果の数だけを見ると、この部分は消えてしまう。

38歳、15年ぶりに日本へ帰る

1915年、野口は渡米以来15年ぶりに日本へ帰国した。故郷では母シカと再会する。母が不慣れな文字で帰国を求めた手紙は、現在も野口英世の物語を象徴する資料として知られている。

野口英世と母シカ
野口英世と母シカ。Wikimedia Commons / Public domain

世界的な研究者となった息子と、猪苗代に暮らし続けた母。野口の人生には、故郷から離れる力と、故郷へ引き戻す関係の両方があった。

41歳、黄熱病に向かう

1918年、野口はロックフェラー側の黄熱病研究のためエクアドルへ派遣された。そこで患者からレプトスピラの一種を見つけ、これを Leptospira icteroides と名づけて黄熱病の病原体だと考えた。

当時、黄熱病の原因についてはまだ技術的に見えない部分が多かった。野口の説はただちに荒唐無稽とされたわけではなく、それをもとにワクチンと抗血清も作られ、広く使用された時期がある。本人も多数の接種例を成功例として報告した。

しかし、他の研究者たちは野口の結果を再現できなかった。黄熱病の病原体は濾過器を通過することが知られていたのに、野口のレプトスピラはそうではない。1926年にはMax TheilerとAndrew Watson Sellardsが、野口の L. icteroides を別のレプトスピラと血清学的に区別できないことを示した。同じ年、Rockefeller Foundationはこのワクチンの配布を中止している。

黄熱病は細菌ではなく、ウイルスによって起きる病気だった。

間違った仮説は、簡単には捨てられない

科学の教科書では、正しい説と間違った説はきれいに分かれている。しかし、研究をしている最中の人間には、その境界はまだ見えない。

野口の黄熱病説には反証が積み上がっていった。それでも彼は研究をやめなかった。1927年、50歳で西アフリカへ向かう。そこで流行していた黄熱病を調べ、自分の仮説をもう一度確かめようとした。

この行動は、「真理を求めて命を惜しまなかった勇気」と読むこともできる。しかし、すでに自説への疑いが強くなっていた時期であることを考えれば、別の読み方もできる。長年の研究と自分の名声を支えた仮説を、どの時点で手放せるのか。科学者にとって、データだけではなく、自分自身の過去も判断に入り込む。

野口が何を感じていたのかは分からない。ただ、反証があるなかでも検証を続けたという事実は残る。

51歳、黄熱病で死ぬ

1928年5月、アクラで研究を続けていた野口自身が黄熱病に感染した。5月21日、51歳で死去する。

死後、日本では「黄熱病研究に命を捧げた科学者」という物語が強く残った。野口英世記念会の年譜にも「殉職」という言葉が使われている。現在の千円札に肖像が使われたこともあり、野口英世は日本で最もよく知られた科学者の一人になった。

しかし、その人生を科学史として読み直すと、像は少し複雑になる。神経梅毒について重要な成果を残した。一方で、梅毒菌の培養には再現性の問題があり、人体研究には倫理的な問題が残り、黄熱病の病原体説は間違っていた。

だからといって、「実は偉人ではなかった」と反転させればよいわけでもない。

左手に障害を負った少年が、周囲の支援によって学ぶ機会を得る。医師資格を取り、研究者となり、他人の信用と金を借りて海を渡る。新しい研究環境で大量の実験を行い、正しい発見も、再現されない主張も残す。そして最後まで、自分の仮説を検証し続ける。

成功と失敗。努力と支援。科学的成果と科学的誤り。

それらを一方だけ消さずに並べたとき、千円札の肖像よりも少し人間に近い、野口英世の輪郭が見えてくる。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1876年11月9日0歳

    福島県三ツ和村三城潟に生まれる

  2. 18781歳

    囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う

  3. 189215歳

    会陽医院の渡部鼎による左手の手術を受ける

  4. 189316歳

    会陽医院に書生として入り、医学と語学を学ぶ

  5. 189619歳

    医術開業試験のため上京し、前期試験に合格する

  6. 189720歳

    後期試験に合格して医師資格を得る

  7. 189821歳

    伝染病研究所に入り、清作から英世へ改名する

  8. 190024歳

    血脇守之助らの支援を受けて渡米する

  9. 190427歳

    ロックフェラー医学研究所に入る

  10. 191336歳

    進行麻痺患者の脳組織から梅毒スピロヘータを確認した研究を報告する

  11. 191538歳

    15年ぶりに日本へ帰国し、母シカと再会する

  12. 191841歳

    黄熱病研究のためエクアドルへ赴く

  13. 192649歳

    黄熱病病原体説への反証が強まり、関連ワクチンの配布が中止される

  14. 192750歳

    黄熱病研究のため西アフリカへ渡る

  15. 1928年5月21日51歳

    アクラで黄熱病により死去する

05 / Works

主な研究

01

感染症研究 / 1913

梅毒と神経症状の研究

Joseph W. Mooreとともに進行麻痺患者の脳組織からTreponema pallidumを確認し、神経梅毒の理解に重要な証拠を加えた。

02

診断研究 / 1911–1912

ルエチン皮内反応

梅毒診断を目的に開発した皮膚反応試験。研究対象には健康な子どもも含まれ、後世には人体研究倫理の観点からも検討されている。

03

感染症研究 / 1918–1928

黄熱病研究

黄熱病の病原体をLeptospira icteroidesとする説を提唱したが、後に誤りと判明した。反証が強まるなかでも研究を続けた。

06 / Conditions

野口英世の人生をつくったもの

  • 01

    支援者と信用

    小林栄、渡部鼎、血脇守之助、サイモン・フレクスナーらとの出会いが、教育、手術、上京、渡米、研究環境への扉を開いた。

  • 02

    実験への集中

    大量の実験と長時間の研究を続け、梅毒をはじめ複数の感染症研究で国際的評価を得た一方、その研究姿勢には危うさも伴った。

  • 03

    成功と誤り

    神経梅毒研究の重要な成果と、再現されなかった培養主張や誤った黄熱病説が、同じ科学者の仕事の中に並んでいる。

07 / Read more

もっと知る

一次資料

野口英世のJournal of Experimental Medicine掲載論文

Hideyo Noguchi

成功した研究だけでなく、当時どのようなデータから結論を組み立てていたのかを確認できる。

資料館

野口英世記念館・野口英世記念会

生涯の年譜、母シカの手紙、研究資料などを確認するための基礎資料。顕彰的な語りと史実は分けて読む必要がある。