一人の人生を読む
ムヴェゾから「大きな場所」へ
1918年7月18日、ネルソン・ロリフララ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)は、南アフリカ東部のムヴェゾ(Mvezo)に生まれた。母ノンカフィ・ノセケニ(Nonqaphi Nosekeni)と暮らしたクヌ(Qunu)では牛の世話をし、野原で同年代の子どもたちと遊んだ。メソジスト系の小学校へ入った初日、教師ミス・ムディンガネ(Miss Mdingane)が彼に「ネルソン」という英語名を与えた。父ガドラ・マンデラ(Gadla Mandela)はテムブ人の摂政に仕える助言者で、少年期に父を亡くすと、マンデラはムケケズウェニ(Mqhekezweni)の王宮へ引き取られた。
そこは「大きな場所」と呼ばれ、摂政ジョンギンタバ・ダリンディエボ(Jongintaba Dalindyebo)が人々の訴えを聞く場でもあった。会合では、まず訪問者が順に話し、摂政は最後まで聞いてからまとめる。マンデラは後に、この光景を指導者の振る舞いを学んだ場所として振り返った。一方、クラークベリー寄宿学校(Clarkebury Boarding Institute)とヒールドタウン(Healdtown)では、キリスト教と英語を軸にした教育を受ける。王家の慣習、植民地期の学校、黒人の歴史について語る年長者の声は、同じ少年の中に並んでいた。
23歳、ヨハネスブルグで働く
1939年、21歳でフォート・ヘア大学(University College of Fort Hare)へ入学した。翌年、学生代表評議会をめぐる抗議に加わって大学を去り、ムケケズウェニへ戻る。摂政がマンデラと従兄ジャスティス(Justice Dalindyebo)の結婚を決めると、二人は1941年にヨハネスブルグ(Johannesburg)へ逃れた。マンデラは金鉱山の警備員になったが、家出の事情が伝わると職を失った。
不動産業を営むウォルター・シスル(Walter Sisulu)との出会いが、次の仕事につながる。弁護士事務所ウィトキン・シデルスキー・アンド・アイデルマン(Witkin, Sidelsky and Eidelman)で書記として働き、通信教育で学士課程を終え、ウィットウォーターズランド大学(University of the Witwatersrand)では法学を学んだ。昼は書類と依頼人に向き合い、夜は講義へ通う暮らしのなかで、黒人が仕事、住居、移動のたびに法によって区分される都市を知った。
シスルの家には若い活動家が集まり、マンデラはそこでアントン・レンベデ(Anton Lembede)らと議論を重ねた。1944年、26歳でアフリカ民族会議(African National Congress、ANC)青年同盟の創設に加わる。同じ年、シスルの従妹で看護師のエヴリン・メイス(Evelyn Mase)と結婚し、二人の間には四人の子どもが生まれた。政治組織の会合と法律の勉強が増えるほど、家庭で過ごせる時間は削られていった。
チャンセラー・ハウスの法律事務所
1952年3月、33歳のマンデラはトランスヴァール州で弁護士として認可された。同年8月、友人オリバー・タンボ(Oliver Tambo)とマンデラ&タンボを開き、ヨハネスブルグ中心部のチャンセラー・ハウス(Chancellor House)に事務所を構えた。黒人が借りられるオフィス自体が限られる時代で、待合室には、通行証、立ち退き、警察による逮捕など、アパルトヘイトの法律を日常で受けた人々が訪れた。二人の仕事場では、法廷で一件ずつ争うことと、法を変える政治運動とが切り離せなかった。
その年の不服従運動(Defiance Campaign)で、マンデラは全国義勇隊長を務めた。参加者は人種別に定められた施設へ入り、通行証を持たずに外出するなど、差別法へ公然と違反して逮捕を受け入れた。マンデラら20人も共産主義抑圧法違反で有罪となり、9か月の刑は執行猶予になった。政府から集会参加や活動範囲を制限されても、事務所と組織の仕事は続いた。
1956年12月には、マンデラを含む156人が国家反逆罪の容疑で一斉に逮捕される。裁判は四年以上続き、1961年3月に残った被告全員が無罪となった。その間、エヴリンとの結婚は終わり、1958年にソーシャルワーカーのウィニー・マディキゼラ(Winnie Madikizela)と再婚する。二人には二人の娘が生まれたが、逮捕、裁判、活動禁止が続く家で、一緒に暮らした時間は短かった。
地下へ入り、武装組織を率いる
1960年3月21日、シャープビル(Sharpeville)で通行証法に抗議する人々へ警察が発砲した。その後、政府は非常事態を宣言し、ANCとパン・アフリカニスト会議(Pan Africanist Congress、PAC)を禁止する。合法組織として活動する道を閉ざされたマンデラは地下へ入り、運転手などに姿を変えながら各地を移動した。政府に非人種的な憲法を話し合うよう求めたが応答はなく、1961年5月末のストライキも厳しい警備の下で行われた。
同年、マンデラは民族の槍(Umkhonto weSizwe、MK)の設立に関わり、初代司令官となる。リヴォニア裁判での陳述によれば、最初に選んだのは政府施設などへの破壊活動で、人的被害を避けながら圧力を加え、将来の人種間戦争を避ける余地を残そうとした。それでも、これは大衆的不服従から武装闘争への重大な転換だった。1962年1月には秘密裏に国外へ出てアフリカ諸国で支援を求め、エチオピアで軍事訓練も受けた。
帰国後の8月5日、44歳のマンデラは逮捕された。無許可出国とストライキ扇動で5年刑を受け、服役中の1963年、リヴォニア(Rivonia)のリリーズリーフ農場で押収された文書をもとに、ほかの活動家と破壊活動などの罪に問われる。死刑の可能性がある裁判だった。
プレトリアの被告席
1964年4月20日、プレトリアのパレス・オブ・ジャスティス(Palace of Justice)の被告席に立った45歳のマンデラは、証人として尋問を受ける代わりに陳述を選んだ。四時間を超える演説で、法律家としての経歴、ANCの運動、MKが破壊活動を選んだ経緯を説明し、白人支配にも黒人支配にも反対する民主的で自由な社会を理想としてきたと述べた。演説は、必要ならその理想のために死ぬ覚悟がある、という言葉で終わる。
6月12日、マンデラとウォルター・シスル、アーメド・カスラダ(Ahmed Kathrada)ら8人に終身刑が言い渡された。白人だったデニス・ゴールドバーグ(Denis Goldberg)はプレトリア中央刑務所へ、マンデラを含む7人はケープタウン沖のロベン島(Robben Island)へ送られた。人種分類は、同じ判決を受けた被告の収監先まで分けた。
一通の手紙を家族へ届けるまで
ロベン島で、政治犯たちは石を砕き、のちには石灰岩の採石場で働いた。マンデラは狭い独房で眠り、囚人の人種分類によって食事や衣服にも差をつけられた。彼と仲間たちは、学ぶ権利、長ズボン、食事、看守の扱いをめぐって刑務所当局と交渉し、互いに法律や政治を教え合った。島での18年は、同じ一日を耐えるだけでなく、制度の内側で小さな条件を変える長い組織活動でもあった。
外の家族とつながる手段は、検閲される手紙と限られた面会だった。娘へ送った誕生日カードや写真が届かず、マンデラは手紙の中で、科学が奇跡を起こして娘にそれらを届けてくれたら、と書いた。1968年に母が、翌1969年に長男テンビ(Thembekile Mandela)が亡くなっても、葬儀への出席は認められない。ウィニーも拘禁や追放処分を受け、家族への言葉は、届くかどうか分からない紙の上に置くほかなかった。
1982年、マンデラは4人の仲間とポルスモア刑務所(Pollsmoor Prison)へ移される。1985年に前立腺の手術で入院した際、司法相コビー・クッツェー(Kobie Coetsee)が病室を訪ねた。その接触を糸口に、マンデラは政府が将来ANCと話す意思を持つか探り始める。仲間へ事前に相談しないまま動く危険を承知しつつ、1986年から政府側との「交渉のための交渉」を進めた。
1988年には結核で入院し、同年末、ヴィクター・フェルスター刑務所(Victor Verster Prison)の敷地内にある一軒家へ移された。そこでは面会の条件が緩み、政府との会談を重ねる一方、南アフリカ大学(University of South Africa)を通じて続けてきた法学課程を修了した。1989年、70歳で得た学位は、本人不在の卒業式で授与された。
71歳で戻った政治の現場
1990年2月11日、マンデラはウィニーと手をつなぎ、ヴィクター・フェルスター刑務所の門を出た。71歳だった。9日前にF・W・デクラーク(F. W. de Klerk)大統領がANCなどの合法化を発表していたが、釈放は闘争の終わりではない。政治犯の釈放、亡命者の帰国、武装闘争の停止、選挙制度をめぐる交渉を、街頭の暴力が続くなかで進める必要があった。
マンデラはANC議長となり、政府との交渉と組織内の合意づくりを担った。かつて破壊活動を指揮した人物と、彼を収監した体制の大統領が、同じ移行を成立させる当事者になる。1993年、二人はアパルトヘイトの平和的終結と民主的南アフリカの基礎づくりを理由に、ノーベル平和賞を共同受賞した。
政治の中心へ戻っても、私生活は釈放前の形には戻らなかった。ウィニーとは1992年に別居し、1996年に離婚する。子どもたちにとっては、長く不在だった父が帰宅すると同時に「国民の父」になった。マンデラ自身の解放と、家族が失った時間の回復は、同じ出来事ではなかった。
投票用紙から大統領府へ
1994年4月27日、75歳のマンデラはクワズール・ナタール州イナンダ(Inanda)で、生涯初めて国政選挙の票を投じた。南アフリカ初の全人種参加による民主選挙でANCが勝利し、5月10日、プレトリアのユニオン・ビルディング(Union Buildings)で大統領に就任する。かつて黒人多数派を国家の外へ置いた政府庁舎が、国民統合政府の発足を告げる場所になった。
政権にはデクラークら旧体制側も加わった。マンデラが選んだ和解は、個人的に相手を許せるかだけの問題ではなく、軍、警察、官僚機構、企業、旧解放運動を一つの制度へ移す政治だった。1995年ラグビー・ワールドカップの表彰式で代表チームのジャージーを着た姿はその象徴になったが、新政府の仕事は住宅、水道、教育、医療の格差へ向き合い、1996年憲法の下で権利を制度化するところにあった。
1998年、80歳の誕生日にモザンビーク元大統領夫人のグラサ・マシェル(Graça Machel)と結婚した。翌1999年、マンデラは二期目を求めず、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)へ大統領職を引き渡す。引退後は学校や診療所への支援、子どもの権利、平和構築に取り組み、HIV/エイズについて公に語った。
2013年12月5日、マンデラはヨハネスブルグの自宅で死去した。95歳だった。村の王宮で人々の話を聞いた少年は、都市の法律事務所で制度の力を知り、被告席では自らの選択を説明し、独房から政府との対話を始めた。自由へ向かう95年は一直線ではなく、その時々の場所と仲間のなかで、次の手段を選び取る時間だった。
