一人の人生を読む
裕福な家から、質屋と薬屋へ
1881年9月25日、魯迅は浙江省紹興に生まれた。本名は周樹人。後に中国近代文学を代表する作家として知られるようになるが、彼が生まれた時点で「魯迅」という人物はまだ存在しない。
周家は地域では比較的よく知られた家だった。しかし、少年期に家の状況は大きく変わる。祖父が科挙をめぐる事件で投獄され、父は長く病気を患った。魯迅は後年、『吶喊』自序のなかで、家の物を質屋へ持っていき、その金を持って薬屋へ走った記憶を書いている。
質屋と薬屋。その往復は、少年が家の社会的な位置が下がっていくことを身体で知る経験でもあった。父は1896年に亡くなる。魯迅はまだ十代半ばだった。
後の彼が伝統的な医療や社会制度を批判的に語るとき、この経験を無関係とすることは難しい。ただし、父の死がそのまま一本の直線で「反伝統」や「文学」につながった、と言い切るのも乱暴である。人生はそこまで整理されていない。
17歳、「正しい道」ではない学校へ行く
1898年、魯迅は故郷を離れて南京へ向かった。当時の中国で、科挙を経て官僚になる道は依然として強い意味を持っていたが、彼が選んだのは近代的な技術や科学を教える学校だった。海軍、鉱山、鉄道といった新しい知識に触れ、外国語や西洋の科学思想を読む。
これは後から見れば「近代文学者になるための準備」にも見える。しかし、その時点の本人に未来の完成図があったわけではない。むしろ、家が傾き、従来の道への信頼が揺らぐなかで、別の可能性を探していた時期と見る方が自然だろう。
やがて、その探索は中国の外へ向かう。
20歳、日本へ
1902年、20歳の周樹人は官費留学生として日本へ渡った。まず東京で日本語を学びながら、翻訳や思想書に触れる。当時の日本には多くの中国人留学生が集まり、清朝末期の中国をどう変えるかをめぐる議論が盛んだった。
しかし周樹人は、その留学生社会の中心に居続ける道を選ばなかった。1904年、東京を離れて仙台医学専門学校へ進む。東北大学史料館によれば、中国人留学生がほとんどいない土地で学びたいという意図もあったという。
23歳、仙台で医学を学ぶ
仙台で周樹人は医学を学んだ。解剖学の教師だった藤野厳九郎との関係は、後に「藤野先生」として文章に残される。藤野が添削した講義ノートも現存しており、二人の関係は単なる文学上の創作ではない。
なぜ医学だったのか。魯迅自身は後に、父の病気と死、西洋医学への関心、日本の近代化への理解などを理由として語っている。病気を治すことができれば、人々を直接助けられる。医学は非常に具体的な進路であった。
ところが、ここで彼の人生について最も有名な場面が登場する。
有名すぎる「幻灯事件」を、少し疑って読む
魯迅は後年、授業の合間に日露戦争に関する幻灯を見たと書いた。そこにはロシア軍のスパイとされた中国人が日本軍によって処刑されようとする場面と、それを見物する中国人の姿が映っていたという。
彼がそこから得た結論は強烈だった。身体が健康でも、精神が変わらなければ意味がない。医学よりも、人間の精神へ働きかける文学の方が重要なのではないか。魯迅自身の回想では、この場面が進路変更の象徴になっている。
ただし、ここはHegelroomでは少し慎重に読んでおきたい。
東北大学史料館の調査では、仙台医専で日露戦争に関する幻灯が上映されていたこと自体は確認できる。一方、現在確認できる幻灯資料のなかに、魯迅が後に描写した処刑場面そのものは見つかっていない。また、この出来事についての記述は後年の文学作品や回想のなかで形を変えている。
つまり「幻灯を見た」という出来事と、「それが私の人生を変えた」という後年の物語は、同じものではない可能性がある。
人は人生の転機を、後から一つの場面として語り直すことがある。魯迅ほど言葉に自覚的だった人であれば、なおさらだろう。だからこの出来事を疑って捨てる必要もなければ、完全な記録映像のように受け取る必要もない。重要なのは、魯迅自身が後になって、この場面を自分の人生を説明する物語として選んだという事実である。
24歳、医学をやめる。だが、まだ魯迅ではない
1906年、周樹人は仙台医学専門学校を離れた。医学から文学へ。伝記では、この一行だけで人生が切り替わることが多い。
しかし、本当に面白いのはその後である。
1906年に医学をやめた彼が、「魯迅」の名で『狂人日記』を発表するのは1918年。約12年後だ。
東京へ戻った周樹人は、文学雑誌をつくる計画を立て、翻訳や文学運動を試みた。しかし思ったようには進まない。1909年には中国へ帰国し、杭州や紹興で教師として働くことになる。
もし人生を「転機」だけで読むなら、1906年に彼は文学者になったことになる。現実には、決断と結果のあいだには長い時間があった。
30代前半、役人になる
1911年に辛亥革命が起こり、翌1912年、中華民国が成立する。30歳になった周樹人は教育部の職員となり、やがて北京で勤務した。
後世の「反体制の作家・魯迅」という像から見ると、中央政府の役人として働く姿は少し意外に見える。けれど、人の職業は思想のラベルだけでは決まらない。生活があり、家族があり、収入が必要だった。
北京時代の彼は、仕事をしながら古い碑文や拓本を集め、研究した。『吶喊』自序では、紹興会館の一室で古碑を写すような日々を送っていたことが回想されている。
文学を志したはずの人間が、長い間、世間に知られる作家にはならない。ここに魯迅の人生の一つの重要な空白がある。
36歳、友人に「書け」と言われる
その空白を動かした一人が銭玄同だった。『新青年』に関わっていた銭は、周樹人のもとを訪れ、文章を書くよう勧めた。
魯迅は後に、このときの会話を「鉄の部屋」の比喩で書いている。窓もなく壊すことも難しい鉄の部屋で、多くの人が眠ったまま窒息しようとしている。彼らを起こせば、死ぬ苦しみを味わわせるだけではないか。そう考える魯迅に、銭玄同は、起きる人が少しでもいるなら鉄の部屋を壊す希望がまったくないとは言えない、と返した。
この会話が一字一句そのまま行われたかどうかより、魯迅が自分の執筆開始をどのように記憶していたかが興味深い。
1918年5月、『新青年』に『狂人日記』が掲載される。ここで初めて「魯迅」という筆名が使われた。
医学を離れてから12年。36歳だった。
「作品を書いた」だけでは、作家にはならない
現在から見ると、『狂人日記』は中国近代文学の記念碑のように扱われる。しかし1918年の時点で、後世と同じような評価が一瞬で確立したわけではない。読者が魯迅の作品をどう読むか、その読み方自体が数年をかけて形成されていったことも研究されている。
1920年代に入ると、『故郷』『阿Q正伝』などが発表され、作品集『吶喊』が刊行される。魯迅の名は次第に大きくなった。同時に北京大学などで教え、若い書き手たちとも関わっていく。
けれど、作家として名が知られるようになったからといって、人生が一本の線に整うわけではなかった。
作家になったあとも、人生は整理されない
魯迅には朱安という妻がいた。家族によって決められた結婚であり、本人の望んだ結婚ではなかったとされる。一方、1920年代半ばからは、教え子だった許広平との関係が深まっていく。
また、長く非常に近い関係にあった弟の周作人とは、1923年に突然のように決裂した。二人の関係が壊れたことは明らかだが、その私的な原因については現在も単純には決められない。
「家族」という言葉の中には、形式上の婚姻、兄弟との共同生活、母への責任、許広平との新しい生活が同時に存在していた。後世からきれいに整理できるものではない。
魯迅自身の文章が人間の矛盾や自己欺瞞に敏感だったことを考えると、その作者の生活もまた、単純な道徳物語にはしにくい。
40代半ば、北京を離れる
1926年、魯迅は北京を離れた。厦門、広州を経て、1927年に上海へ移る。46歳になっていた。
上海では許広平と生活しながら、執筆、編集、翻訳、若い作家への支援を続ける。木版画運動にも力を入れた。彼にとって文学は、小説を書くことだけではなく、雑誌をつくり、翻訳し、若い表現者を紹介し、文化の場そのものを動かす仕事になっていた。
1930年代には左翼作家の運動にも深く関わる。ただし「左翼の代表者」という言葉だけで整理すると、また実際の魯迅から遠ざかる。彼は同じ陣営の人間とも激しく論争した。味方であれば批判しない、という人ではなかった。
むしろ晩年まで一貫していたのは、どんな立場であれ、人が思考を止めた瞬間への警戒だったように見える。
55歳。最後まで、完成しなかった人
1936年10月19日、魯迅は上海で亡くなった。55歳だった。
後世の魯迅は巨大である。中国近代文学の父、思想家、革命的知識人。教科書や政治の言葉のなかでは、ときに最初から一つの完成した人物だったように見える。
しかし年齢に沿って見直すと、違う姿が現れる。
十代で家の没落を経験し、17歳で故郷を出た。20歳で日本へ行き、23歳で医学を学び、24歳でその道をやめた。しかし、36歳になるまで「魯迅」の名は世に現れない。その後も家族との断絶があり、都市を移り、政治的な仲間とも争い続けた。
人生の意味は、転機が起きた瞬間に完成するわけではない。
医学をやめた1906年の周樹人は、後世の魯迅をまだ知らない。文学へ進むと決めても、雑誌は思うように立ち上がらず、教師になり、役人になり、古碑を写す時間が続いた。その十二年を飛ばしてしまうと、魯迅の人生はあまりにも簡単になる。
むしろ興味深いのは、決断したあとに何者にもなれない時間があり、それでも別の人間との出会いや時代の変化によって、人生がもう一度動き始めたことである。
「魯迅」は、一度の決断によって生まれた名前ではなかった。長い停滞と試行錯誤のあと、36歳になった周樹人がようやく使い始めた名前だったのである。

