一人の人生を読む
石と建築に囲まれて育つ
1677年、ヤン・ブラジェイ・サンティーニ=アイヘルはプラハの石工の家に生まれた。祖父も父も石を扱う職人であり、普通なら長男である彼も、その仕事を継いでいたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。サンティーニには生まれつき身体的な障害があり、父と同じように石工として働くことが難しかったからである。具体的にどのような障害だったのかについては資料によって記述に差があり、正確なところは分からない。ただ、それが父の職業をそのまま継ぐことを難しくしたことは、複数の資料から確認できる。
石工にはなれなかった。しかし建築から離れたわけでもない。その後の彼は、石を直接加工する職人ではなく、石によってつくられる空間を考える人になっていく。
父サンティン・アイヘルはイタリア系の石工で、その父、つまりサンティーニの祖父アントニオ・アイヘルは17世紀前半にイタリアからプラハへ移ってきた職人だった。サンティーニは、石材、建築現場、職人、設計者といったものが身近に存在する環境で育ったのである。巨大な聖ヴィート大聖堂も、彼にとって遠い歴史上の建物ではなかった。
人がどんな仕事を選ぶのかを考えるとき、本人の才能や意思だけを見ていると何かを取りこぼすことがある。生まれた場所、親の仕事、家の経済状況、周囲にいる大人たち。サンティーニにとって建築は、成人してから偶然出会った世界ではなく、最初から生活の周囲にあった。違ったのは、その世界への入り方だった。
石を刻む代わりに、線を引く
父と同じ石工として働くことが難しかったサンティーニは、絵画を学んだ。また、当時プラハで活動していたフランス出身の建築家ジャン=バティスト・マテイから建築を学んだと考えられている。両者の関係について細部まで確定しているわけではないものの、マテイがサンティーニの建築形成にとって重要な存在であったことは広く認められている。
1705年、28歳のサンティーニはプラハのマラー・ストラナで市民権を取得する。その文書で彼は、自らの職業を「画家・建築家」と記した。
現在、サンティーニが描いたと確実に言える絵画作品は知られていない。一方、残された建築図面からは、絵画や製図の訓練を受けた人物らしい高い描写力が見て取れる。石工の家で身につけた建築や施工についての知識と、絵画・製図の訓練。その二つが、後の彼の中で結びついていったように見える。
父のように石を切る仕事を継ぐことはできなかった。代わりに紙の上へ線を引き、その線を別の職人たちが石や煉瓦へ変えていく。身体を使って石を加工する職人から、頭の中にある空間を図面として他者に渡す設計者へ。
もちろん、身体的な制約が彼の才能を生んだ、とまで言うことはできない。ただ、父と同じ道をそのまま進めなかったことと、別の形で建築の世界に残ったこと。その二つが、同じ人生の中にあった。
20歳前後、プラハを出る
修業を終えたサンティーニは、1690年代後半に旅へ出たと考えられている。オーストリアを経由してイタリアへ向かい、現地の建築を学んだ。
若い職人や芸術家が外国を旅し、先進的な作品を学ぶこと自体は当時として特別なことではない。しかし、サンティーニがこの旅で目にした建築は、その後の仕事に長く残ることになる。
トリノではグアリーノ・グアリーニ、ローマではフランチェスコ・ボッロミーニの建築に触れたとされる。なかでもボッロミーニの影響は大きい。壁を平面のまま扱わず、凹ませ、膨らませ、幾何学的に組み合わせ、空間そのものを動いているように見せる建築である。後のサンティーニにも、幾何学を使って空間を組み立てる発想が現れる。
ただし、イタリアで見た建築をそのままボヘミアへ持ち帰ったわけではない。そこに、幼い頃から目にしてきたゴシック建築が混ざっていく。この組み合わせが、サンティーニを同時代の建築家とは少し違った場所へ連れていった。
20代半ば、大きな仕事を任される
1700年頃には、サンティーニはすでに独立した設計活動を始めていた。プラハ周辺の修道院建築に関わり、そこから宗教組織のネットワークを通じて仕事を広げていったと考えられている。
大きな転機となったのが、クトナー・ホラ郊外のセドレツであった。そこには中世に建てられた巨大なシトー会修道院教会があったが、15世紀のフス戦争で大きな被害を受け、その後長く荒廃していた。18世紀に入り、修道院は本格的な再建に乗り出す。その仕事を任されたのが、まだ20代半ばだったサンティーニである。若い建築家としてはかなり大きな仕事だった。
そしてこのセドレツの仕事で、後に彼の名前と強く結びつく「バロック・ゴシック」が姿を見せ始める。
サンティーニは古いゴシック建築を、単に昔の姿へ戻そうとはしなかった。尖頭アーチや複雑なヴォールト、強い垂直性といったゴシックの語彙を残しながら、そこへ当時のバロック建築が持つ動きや空間性を重ねていく。過去をそのまま保存するのでも、新しい様式で塗り替えるのでもない。古い時間と新しい時間を、同じ建物の中に残す方法であった。
なぜ、バロックの時代にゴシックだったのか
ここには一つ疑問が残る。18世紀初頭はバロックの時代である。なぜサンティーニやその依頼主たちは、わざわざ数百年前のゴシックを持ち出したのだろう。
これは彼個人の好みだけでは説明しにくい。サンティーニの重要な顧客には、シトー会、ベネディクト会、プレモントレ会など、中世から続く古い修道会が多かった。17世紀末から18世紀初頭のボヘミアでは、こうした修道院が経済力を回復し、大規模な再建を進めていた。
彼らにとってゴシックは、単なる「古いデザイン」ではなかった。中世からこの土地に存在してきたという、自分たちの歴史を示す様式でもある。
そう考えると、サンティーニのバロック・ゴシックは、単純に「ゴシック+バロック」という二つのデザインを混ぜたものではなくなる。新しい時代の建築の中に、過去の記憶を残す方法でもあったのだ。建築によって、「私たちは昔からここにいる」という時間を表現すること。
サンティーニ自身がそれをどこまで言葉にしていたかは分からない。しかし、彼の建築がその役割を果たしていたことは確かである。
28歳、すでに成功した建築家
1705年、28歳のサンティーニはプラハのマラー・ストラナで家を購入し、市民権も取得した。20代後半の時点で、建築家として経済的にも成功し始めていたことが分かる。
ただし、その成功の仕方は少し特殊だった。サンティーニはプラハの石工・建設職人ギルドの親方ではなかった。そのため、一般的な建設業者として活動する場合とは異なる立場にあり、重要な顧客になったのが修道院や貴族たちである。
才能があったから成功した――とだけ説明すると、少し足りない。どんな制度が存在したのか。誰に評価されたのか。その評価を誰が次の仕事へつないだのか。サンティーニの仕事は、修道院長、貴族、職人、宗教組織といった人間関係の中で広がっていった。
建築は一人では建たない。それはサンティーニのような個性的な建築家の場合でも同じであった。
30歳で結婚。仕事の成功と、家庭の喪失
1707年、30歳になったサンティーニはヴェロニカ・アルジュビェタと結婚した。彼女は、サンティーニが若い頃に絵画を学んだクリスティアン・シュレーダーの娘だった。
二人には四人の子どもが生まれる。しかし三人の息子は、いずれも幼いうちに亡くなった。成人したのは娘アンナ・ヴェロニカだけである。そして1720年、サンティーニが43歳のとき、妻ヴェロニカも亡くなった。
同じ人物の人生の中で、二つの時間が並行している。仕事では有力な修道院や貴族から次々と依頼を受け、収入も社会的評価も上がっていく。一方、家庭では子どもを失い、やがて妻も失った。成功と喪失が重なる時期。
後世から作品だけを見ると、「成功した建築家」という一本の線に見える。しかし、人が実際に生きている時間は、そんなに整然とはしていない。仕事上の成功が家庭で起きたことを消してくれるわけでもなく、逆に家庭での喪失が作品へどんな影響を与えたのかを、資料なしに想像することもできない。分かるのは、その二つが同時に存在していたということである。
1720年、サンティーニは南ボヘミアの貴族の家系に生まれたアントニエ・イグナツィエと再婚した。その後、二人の間にも子どもが生まれている。
42歳、ゼレナー・ホラ
1719年、42歳頃のサンティーニのもとへ、後に代表作と呼ばれる仕事がやってくる。モラヴィアのジュジャール・ナト・サーザヴォウに建てる、聖ヤン・ネポムツキーを記念した巡礼教会である。現在の「ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会」だ。
上空から平面を見ると、普通の教会とはかなり違う。中心から空間が放射状に広がり、五芒星を思わせる幾何学が建物全体を支配している。「5」という数字が繰り返し現れ、五つの入口、五つの礼拝堂、五角形や星形の構成が建築の中に組み込まれている。ここでは、装飾だけではなく幾何学そのものが意味を持つ。
一方で、建物を実際に見ると、尖った窓や強い垂直性などゴシック的な要素がありながら、空間全体はバロックらしく動いている。中世建築の復元でもなければ、普通のバロック建築でもない。現在この建築が世界遺産に登録されている理由の一つも、その独特な融合にある。
教会本体は1722年に奉献された。サンティーニ45歳。周囲の回廊などを含めた工事はその後も続く。しかし、設計者本人は完成を見ることができなかった。
最後まで続いた幾何学への執着
晩年のサンティーニは、宗教建築だけを設計していたわけではない。1721年から1723年には、キンスキー伯爵家のためにカルロヴァ・コルナ城を設計している。
中央の円筒形の空間から三つの翼が放射状に伸びる、きわめて幾何学的な構成。用途は教会とはまったく違うが、「中心」と「放射」を使って建築を組み立てる考え方は共通している。
サンティーニはしばしば、「ゴシックとバロックを組み合わせた建築家」と説明される。それは間違いではない。ただ、作品を続けて見ていくと、それだけでは少し物足りない。彼が繰り返し扱っているのは、様式以前に、空間をどのような幾何学で組み立てるかという問題である。
円、星、放射、交差する線、そして光。現存する図面にも、コンパスによって組み立てられた厳密な幾何学が残る。
石工の家に生まれながら、石工として働くことができなかった少年は、最終的には石そのものよりも、その石をどこへ置くかを考える人になったのである。
46歳。人間の時間が止まる
1723年12月5日、サンティーニは遺言書を作成した。そこには妻アントニエと、まだ成人していない子どもたちについての記述が残されている。二日後の12月7日、サンティーニはプラハで亡くなった。46歳であった。
46歳という死を「早すぎる」と感じるのは、後世から人生を見るこちら側の評価にすぎない。ただ、少なくとも建築家としての仕事がまだ続いていたことは確かだった。ゼレナー・ホラでは工事が続き、彼が残した図面をもとに死後に建設された建築もある。そのため、サンティーニの作品年表には、彼が亡くなった1723年より後の完成年が現れることがある。
人間の時間が止まったあとも、図面の時間だけが進んでいった。
彼の人生を追っていると、「偉人」という言葉が少し邪魔に思えてくる。生まれつき身体的な制約があり、父の職業をそのまま継ぐことができなかった。20歳前後で外国へ出て、20代半ばには大きな仕事を任され、20代後半には経済的な成功を手にする。30歳で結婚し、子どもを失い、43歳で妻を失い、そして46歳で自分自身の人生も終わった。
その途中で、現在も残る建築を設計した。
それだけ、と言えばそれだけである。しかし、人の人生を考えるときには、むしろこの「それだけ」の中で複数の時間が重なっていることの方が面白い。
サンティーニは最初から「バロック・ゴシックの巨匠」だったわけではない。一人の石工の息子として生まれ、自分が置かれた身体、家庭、職業、制度、土地、時代の中で別の道をつくった。その結果として、後世の私たちが「サンティーニらしい」と呼ぶ建築が残ったのである。


