一人の人生を読む
1歳、父を失い、中津へ戻る
1835年1月10日、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に生まれた。父・百助は豊前中津藩の下級藩士で、蔵屋敷の仕事に就いていた。翌1836年、父は病死する。母は子どもたちを連れて中津へ戻り、諭吉はそこで育った。
晩年、福沢は『福翁自伝』の中で父の人生を振り返り、「門閥制度は親の敵」と書いた。下級藩士として生まれたために、父は学問を好みながら望むような生き方ができなかった――福沢はそう理解していた。この言葉は、その後の「独立」思想の原点としてよく引用される。
ただし、『福翁自伝』が書かれたのは福沢が60代になってからである。幼い頃の経験をそのまま録音した記録ではない。明治を生きた後の福沢が、自分の人生を振り返って意味を与え直した文章でもある。そのことを忘れずに読んだ方が、この自伝はむしろ面白い。
14、5歳になってから、学問を始める
福沢は、幼い頃から何でもできた早熟な神童だったわけではない。慶應義塾の年譜や本人の回想では、本格的に漢学を学び始めたのは14、5歳頃だったとされる。始めてからの伸びは速く、とりわけ『左伝』を好んだ。
また、自伝には神仏や迷信を疑い、実際に試してみたという逸話がいくつも出てくる。これらを「少年時代から合理主義者だった証拠」ときれいに結論づける必要はないだろう。ただ、権威や慣習をそのまま信じず、自分で確かめたがる人物として、福沢が晩年に自分を描いたことは分かる。
1854年、19歳になった福沢は、兄に勧められて長崎へ向かう。目的は蘭学を学ぶことだった。ここから人生は急に動き始める。
19歳で長崎へ、20歳で大阪へ
長崎ではオランダ語の初歩を学んだが、滞在は長く続かなかった。福沢自身は後に、同じ中津藩の奥平壱岐との対立から長崎を去ることになったと語っている。江戸へ向かうつもりで大阪まで来たところ、兄の勧めを受け、1855年に緒方洪庵の適塾へ入った。
適塾では医学だけではなく、生理学、物理学、化学などの蘭書を読む。1857年頃には塾長となった。現在の科目区分から見ると不思議に感じるが、当時の蘭学は「オランダ語を学ぶこと」そのものが目的ではない。オランダ語を通して、西洋の科学や技術へアクセスするための方法だった。
1856年には兄が亡くなり、福沢は福沢家の家督を継いだ。それでも家財を整理し、母の許しを得て再び大阪へ出ている。家を継ぐことと、学問を続けること。どちらか一方だけではなく、その両方を抱えながら進んだ時期であった。
23歳、江戸で教える側になる
1858年、福沢は中津藩の命令で江戸へ移った。築地鉄砲洲の藩邸内に小さな蘭学塾を開く。これが後の慶應義塾の起源になる。
ここで立場が変わる。適塾で教わる学生だった人間が、今度は他人へ教える側になる。しかし、その翌年、福沢自身の学問を根本から揺さぶる出来事が起きた。
1859年、開港した横浜を訪れる。外国人居留地の看板や会話に、自分が何年も学んできたオランダ語がほとんど役立たない。国際的な実用語は英語へ移っていたのである。
それまで積み上げてきた知識が無駄になった、と感じても不思議ではない。しかし福沢は英語へ学習対象を切り替えた。当時は十分な教師も辞書もない。簡単な転向ではない。それでも、過去にかけた時間を理由にオランダ語へ固執しなかった。
この「学び直し」は、福沢の人生を考えるうえでかなり重要だと思う。彼は一つの正解を早く見つけた人というより、世界が変わったと知ったとき、自分の学問の方を変えた人だった。
25歳、初めてアメリカを見る
1860年、福沢は咸臨丸に乗ってサンフランシスコへ渡った。初めての海外だった。現地でウェブスターの辞書を購入し、写真館では少女と並んだ一枚の写真も撮っている。
二年後には幕府の遣欧使節に加わり、フランス、イギリス、オランダ、プロイセン、ロシアなどを巡った。1867年には再びアメリカへ行く。幕末だけで三度、欧米を自分の目で見ることになった。
福沢を「西洋を見て自由と平等に目覚めた人」と説明すると分かりやすい。しかし、彼が観察していたのは抽象的な理念だけではない。議会、学校、病院、新聞、会社、税、軍隊、生活用品。西洋社会を動かしている具体的な制度や仕組みだった。
「西洋」を日本語にする
帰国した福沢は、自分が見聞きした西洋社会を日本語で説明する仕事を始める。1866年から刊行された『西洋事情』では、政治制度だけでなく、税、国債、商事会社、学校、新聞などを広く紹介した。
ここで福沢がしていたのは、単純な翻訳ではない。日本の読者にまだ馴染みのない制度を、既存の日本語を使ってどう説明するかという仕事である。外国語を読める人から、異なる社会の仕組みを自国語へ変換する人へ。学問が社会的な仕事になり始める。
33歳、政府に入らず、民間に残る
1868年、塾は「慶應義塾」と名づけられた。明治政府が成立し、福沢ほど西洋事情に通じた人物なら官僚になる道もありえた。しかし、彼は官職へ入らなかった。国立国会図書館の略歴にも、明治以降官職に就かず、位階勲等を受けなかったことが記されている。
代わりに選んだのは、学校、著述、出版、新聞、そして民間の事業を通して社会を変えることだった。後には門下生たちが銀行、商社、保険などさまざまな分野へ進んでいく。福沢の「独立」は、個人が一人で何でもするという意味ではない。政府だけに社会の形成を預けず、民間にも力を持たせるという方向へ広がっていた。
37歳、「天は人の上に人を造らず」――の、その続き
1872年、『学問のすゝめ』初編が刊行された。よく知られる冒頭は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」である。
ただし、原文はそこで終わらない。「……と云えり」と続く。つまり、福沢が自分の思いつきを格言として宣言した形ではなく、すでにある思想を紹介する書き方になっている。アメリカ独立宣言など西洋の天賦人権思想との関係が以前から指摘されてきた。
さらに重要なのは、その後だ。人は生まれながらに貴賤の差がないはずなのに、現実には賢い人と愚かな人、富む人と貧しい人がいる。なぜなのか。福沢はそこから学問の有無へ話を進める。
だから『学問のすゝめ』は、「みんな平等です」という一文だけの本ではない。生得的な身分差を否定したうえで、自ら学び、自分の生活を成り立たせ、他人の自由も妨げずに生きるにはどうすべきかを論じた本である。
そして、もう一つ忘れられがちなことがある。初編は福沢一人の著作ではなく、小幡篤次郎との共著だった。その後、全17編が1876年まで断続的に刊行され、1880年に合本される。
個人の独立と、国家の独立
福沢の思想を「個人主義」でまとめると、後半が見えにくくなる。彼が繰り返し考えていたのは、一人の人間が他人へ依存しすぎず立つことと、日本という国が外国へ従属せず独立を保つことの両方だった。
1875年の『文明論之概略』では、文明や知徳、国家の独立を論じた。1878年には『通俗民権論』と『通俗国権論』を相次いで刊行する。民権か国権か、どちらか一方を選ぶのではなく、本人にとっては両方が必要だったのである。
この構造を押さえておくと、のちの対外論も少し理解しやすくなる。自由や平等を説いた人が、なぜ同時に強い国権を求めたのか。それは福沢の中では、まったく別の話ではなかった。
女性については、時代の常識を疑った
福沢にはもう一つ、現在でも比較的読みやすい側面がある。女性と家族をめぐる議論だ。
1880年代以降、『日本婦人論後編』や『女大学評論』などで、女性だけに服従や貞節を求める儒教的な道徳を批判した。『日本婦人論後編』では、当時女性向けの道徳として流布していた『女大学』の男女を入れ替えてみたら、男性はその教えに従えるのか、と問いかけている。
女性にも学問と経済的自立が必要だと考えた点で、福沢は当時としてかなり先へ出ていた。ただし、ここだけを見て「現代的なリベラル」と呼ぶと、また人物を一色に塗ることになる。福沢の別の側面は、同じ1880年代に強くなっていく。
47歳、自分の新聞を持つ
1882年、福沢は『時事新報』を創刊した。書籍は数か月、数年かけて思想をまとめる媒体だが、新聞はその日の政治や外交へ反応する媒体である。ここから福沢は、日々変化する東アジア情勢について、より直接的に発言するようになった。
朝鮮では、日本の明治維新を参考に近代化を進めようとする開化派と関係を持ち、その活動を支援した。福沢は当初、朝鮮が清国から自立し、改革を進めることを期待していた。しかし、1884年の甲申政変が失敗すると、その語調は厳しくなっていく。
研究では、福沢がやがて朝鮮の「独立」を掲げながら、日本が武力を伴って内政改革へ介入することまで要求するようになったと指摘されている。「独立を助ける」という言葉が、そのまま相手の自己決定を尊重することを意味するわけではなかった。
50歳、「脱亜論」
1885年3月16日、『時事新報』に後に「脱亜論」と呼ばれる短い社説が掲載された。原文は無署名である。後に福沢の論説として全集へ収録され、現在では彼のアジア観を論じる代表的な文章として扱われている。
社説は、西洋文明の拡大を止めることはできず、日本はすでにアジアの旧い枠組みから抜け出しつつあると論じる。そして清国と朝鮮について、隣国だからと特別に連帯するのではなく、西洋諸国と同じ態度で接するべきだとした。
この文章をどう評価するかについては、長く議論が続いている。ただ、二つの極端は避けたい。一つは、「脱亜論」という言葉だけを切り出して福沢の66年全部を説明すること。もう一つは、短い一篇だから重要ではないとして内容を薄めることだ。
大切なのは、その前後に何を書いていたかを見ることである。福沢の清国・朝鮮観は、その後も変化し、日清戦争期にはさらに強い国権論、対外強硬論へ進む。個人の独立を説いた人が、国家の独立を守るためには周辺国へ介入することまで正当化しうると考えるようになった。その連続と変化を、両方見る必要がある。
「自由を説いた人」と「強い国を求めた人」は、同じ人物だった
歴史上の人物を評価するとき、私たちは分かりやすいラベルを求める。福沢なら、「自由と平等の思想家」か、「脱亜論の思想家」か。しかし、実際の人生はそのどちらかだけではなかった。
身分制度を憎み、生まれによる上下を否定した。女性だけに服従を要求する道徳も批判した。その一方で、西欧列強に支配されないため日本の国力を高めることを強く求め、朝鮮や清国に対しては厳しい文明観と介入論を持つようになった。
現在の価値観から見れば、その間には大きな緊張がある。けれど福沢自身にとっては、「一身の独立」と「一国の独立」はむしろ同じ問題の異なる大きさだったのかもしれない。だからこそ、彼の自由論だけを現在へ持ち出すことも、対外論だけで全人格を決めることも、どちらも十分ではない。
晩年、自分の人生を書き直す
1890年代後半、福沢は『福翁自伝』を口述した。速記者が書き起こした原稿へ、本人が大幅に加筆修正しながら仕上げたことが、慶應義塾大学の資料から分かっている。1899年に刊行された。
「門閥制度は親の敵」、神社へのいたずら、長崎での対立、適塾での猛烈な勉強、横浜での落胆、海外で見たもの。現在の私たちが知る「福沢諭吉像」のかなりの部分は、この自伝を通して形づくられている。
自伝は、人生の事実を知るための貴重な資料である。それと同時に、人が晩年になって、自分の人生をどのような一本の物語として語り直したのかを見る資料でもある。
1901年2月3日、福沢は東京で死去した。66歳だった。
漢学を学び、蘭学へ移り、さらに英学へ移った。翻訳者になり、教師になり、著述家になり、新聞人になった。そのたびに、以前の自分が持っていた答えだけでは足りなくなった。
福沢諭吉の人生から見えてくるのは、一つの正しい思想を早く見つけた人の姿ではない。世界が変わるたびに学び直し、その結果として思想そのものも変化し、ときには現在の私たちから見て受け入れにくい場所まで進んだ人の姿である。
