一人の人生を読む
ハワイから、ニュージャージー、ワルシャワへ
ドナルド・E・スーパーは1910年7月10日、ハワイのホノルルに生まれた。後に「キャリア発達」の理論家として知られる人物だが、彼自身の子ども時代は、一つの土地に根を張るというより、何度も環境が変わる生活だった。
父ポールはYMCAで人材育成や組織運営に関わる仕事をしていた。やがて父の転勤に伴って一家はニュージャージーへ移り、さらに1922年、スーパーが12歳のときにはワルシャワへ渡る。父がポーランドでYMCA活動を立ち上げるためだった。
ところが、その最初の冬に兄ロバートが病気で亡くなった。伝記を書いたマーク・サヴィカスは、この喪失が後のスーパーの強い自己統制や合理性に影響した可能性を論じている。ただし、それはあくまで伝記作者による解釈であって、兄の死から後の理論を一本の線で説明できるわけではない。
翌年、スーパーはジュネーブの寄宿学校へ進む。ハワイ、アメリカ本土、ポーランド、スイス。成人するまでに経験した土地だけを並べても、かなり移動の多い少年期であった。
21歳、心理学ではなく経済史を学ぶ
スーパーはその後、オックスフォード大学で学んだ。専攻は心理学ではない。経済史、とりわけイギリスの労働運動について研究し、1932年に学士課程を終えている。
1930年代初頭は世界恐慌のさなかだった。失業は単なる個人の問題ではなく、社会そのものを揺さぶる現実だった。スーパーが後に「人と仕事」の関係へ向かう背景には、父の仕事だけでなく、この時代に雇用を社会問題として見た経験もあったと伝記では指摘されている。
興味深いのは、ここでも後世の肩書きから逆算すると見誤ることである。20代前半のスーパーは、まだ「キャリア発達理論の心理学者」ではない。むしろ労働、雇用、経済という問題の方から、人間と仕事の関係へ近づいていた。
20代前半、YMCAで「仕事を探す人」に会う
大学を終えたスーパーはアメリカへ戻り、クリーブランドのYMCAで働き始めた。仕事は就職斡旋だった。相談に来た人の経験や能力を聞き、地域の求人を調べ、仕事へつなぐ。理論をつくるより先に、職を探す人と向き合う現場にいたのである。
この時期、彼は地域の職業情報を集め、どんな仕事があり、そこではどんな能力が必要なのかを整理していった。同時に大学でも教え、やがて若者のための相談機関、クリーブランド・ガイダンス・サービスの設立と運営に関わる。
職業指導には当時、かなり明快な発想があった。人の能力や興味を測り、仕事側の要求条件と照らし合わせ、できるだけ適合する職業を選ぶ。いわば「人と仕事を正しく組み合わせる」考え方である。
スーパーも適性検査や職業情報を重視した。しかし、実際の相談現場にいると、それだけでは説明しにくいことが出てくる。人は成長する。興味も変わる。働き始めた後にも適応があり、失敗や転職もある。「適職を一つ当てる」だけでは、人の仕事人生を十分には捉えられない。
就職先を当てるだけでは足りない
1936年、26歳のスーパーはアン・マーガレット・ベイカーと結婚し、コロンビア大学Teachers Collegeの博士課程へ進んだ。職業指導と応用心理学を本格的に学び、1938年にはクラーク大学で教えながら学生相談機関を担当する。1940年、29歳で博士号を取得した。
博士論文のテーマは余暇における興味だった。仕事以外の活動へ目を向けていたことは、後に仕事だけでなく複数の生活役割をキャリアの中に組み込んでいくスーパーを考えると興味深い。ただし、ここでも後の理論が最初から完成していたと考えない方がいい。
1942年、31歳のときに『The Dynamics of Vocational Adjustment』を刊行する。この段階ですでに、職業選択は一度だけの決定ではなく、時間の中で進む発達的な過程として捉えられていた。
現在から見ると当たり前にも聞こえる。だが「あなたに合う仕事はこれです」と適性を測って結びつける考え方が強かった時代に、「選ぶ」だけでなく「変わっていく」ことを理論の中心へ置くのは、小さくない転換であった。
31歳、戦争で職業を分析する
同じ1942年、第二次世界大戦によってスーパーの仕事は大きく変わる。アメリカ陸軍航空隊に入り、航空心理学者として研究や心理サービスに携わった。終戦までには少佐となっている。
彼が好んで語ったという逸話がある。パイロットという仕事を分析するのであれば、自分自身も飛行訓練を経験する必要があると主張し、初等飛行訓練に参加したというものだ。後年の伝記に残る本人のエピソードなので、細部をそのまま客観的事実として扱うには慎重さが必要だが、スーパーの仕事の仕方をよく表している。
測定するだけではなく、その仕事が実際には何を要求するのかを見る。人の能力と仕事の側の条件、その両方を調べる姿勢である。
この時期のスーパーは、後のライフ・キャリア・レインボーのような「人生全体」を語る理論家というより、職務分析や適性評価に強い実践的な心理学者だった。
30代後半、テストの専門家として成功する
戦後の1945年、スーパーはコロンビア大学Teachers Collegeへ移った。ここが、その後30年にわたる研究と教育の拠点になる。
1949年、39歳で『Appraising Vocational Fitness by Means of Psychological Tests』を刊行した。職業指導や人材選抜で使われる心理検査を大規模に整理した著作であり、同年、教授へ昇進する。職業適性と心理測定の専門家として、すでに十分な地位を築いていた。
そのまま「人を測り、仕事に適合させる」研究を深め続ける道もあったはずである。ところがスーパーの関心は、むしろ別の方向へ進んでいく。
人は一時点の能力や興味だけでできていない。15歳の自分と35歳の自分では、考えていることも、担っている役割も違う。仕事を選んだ瞬間より、その後どのように仕事へ入り、続け、変わり、時にはやり直すのか。その時間の方へ、研究の焦点が移っていった。
「適職」ではなく、キャリアの時間を見る
1950年代、スーパーは長期的な研究へ力を入れた。代表的なのがCareer Pattern Studyである。若者を長く追跡し、一回の検査結果ではなく、成長の中で職業意識や選択がどう変化するかを調べる試みだった。
ここから「職業発達」という考え方が具体的になっていく。成長、探索、確立、維持、そして後年の離脱。教科書では五つの段階としてきれいに並ぶことが多い。
ただ、スーパー自身の理論はそれほど機械的ではない。転職したり、新しい役割へ入ったりすれば、人は大人になってからも再び探索する。段階は人生に一度だけ通過する階段というより、変化が起きるたびに部分的に繰り返されるものへと考え直されていった。
理論の名前だけを覚えると、この修正の過程が見えにくくなる。
47歳、『The Psychology of Careers』
1957年、47歳のスーパーは『The Psychology of Careers』を刊行した。ここで彼の仕事は、単なる職業適性の測定から明確に離れていく。
重要になるのが「自己概念」である。人は、自分をどんな人間だと考えているかを、仕事や活動の中で表現しようとする。けれど自己概念は最初から完成しているわけではない。経験を通じて変化し、社会からの期待や成功・失敗によっても修正される。
だからキャリアも固定されたものではない。自分についての理解が変われば、選択も変わる。仕事の経験そのものが、また自分についての理解を変える。
「自分に合う仕事を見つける」という言い方だけでは、ここが抜け落ちる。スーパーが扱おうとしたのは、適性と職業を一回で結ぶことではなく、人と仕事が互いに影響しながら変わっていく時間だった。
理論は、完成しなかった
スーパーの理論は1957年で終わらない。その後も職業成熟、発達課題、自己概念、仕事の価値観などをめぐって研究を重ね、海外の研究者とも共同研究を続けた。
この点は、スーパーを理解するうえで意外に大切だと思う。彼には「これが完成版です」と一度で理論を閉じる態度があまり見られない。早い時期には適性検査を重視し、その後は発達へ、さらに自己概念へ、そして生活上の複数の役割へと視野を広げていく。
言い換えれば、スーパー自身がキャリアを研究しながら、キャリアという言葉の意味を何十年もかけて変えていったのである。
65歳で退職しても、キャリアは終わらない
1975年、65歳でスーパーはTeachers Collegeを退職した。一般的な年表なら、ここから「晩年」と書いて終わりに向かうところである。
しかし彼は、その後も研究、講演、国際的な活動を続けた。ケンブリッジやパリをはじめ、複数の大学や研究機関に関わり、理論の改訂を進めていく。
ここで本人の人生を自分の理論に無理やり当てはめる必要はない。ただ、「退職」を職業人生の終点とせず、その後にも研究者、教師、市民、家族の一員としての役割が続くことは、彼が後に示すキャリア観と不思議な響き合いを持っている。
そして69歳のとき、その考えは一つの図として広く知られる形になる。
69歳、キャリアを「人生の役割」まで広げる
1980年、スーパーは「A Life-Span, Life-Space Approach to Career Development」を発表した。ここでキャリアは、単なる職歴よりずっと広いものとして定義される。
人は労働者であるだけではない。子どもであり、学生であり、市民であり、配偶者や親になることもある。余暇を過ごす人でもあり、やがて退職者になる場合もある。これらの役割は同時に存在し、人生の時期によって重みが変わる。
スーパーは、この時間軸と複数の役割を一つの図にした。後に広く知られるライフ・キャリア・レインボーである。
ここまで来ると、「キャリア」という言葉は就職先の履歴とはかなり違う意味を持つ。ある人が一生の中で、どの役割にどれほど関わり、それらがどのように重なり合うか。その組み合わせ自体がキャリアになる。
20代のスーパーがYMCAで向き合っていた問いは、おそらくもっと直接的だった。どんな仕事を紹介すれば、この人は働けるのか。そこから半世紀近くをかけて、問いは「この人は人生の中で、どんな役割をどう生きていくのか」まで広がった。
83歳まで、理論を更新する
スーパーは1994年6月21日に亡くなった。83歳であった。National Vocational Guidance Association、後のNational Career Development Associationには1934年から死去するまで60年間関わり続けたという。
彼の名前は、現在では「五段階」や「ライフ・キャリア・レインボー」とセットで覚えられることが多い。それは間違いではない。ただ、その完成した図だけを見ると、スーパーが長い時間をかけて問いそのものを変えていったことが見えなくなる。
最初にあったのは、仕事を探している人と求人をどう結びつけるかという現場の問題だった。そこから適性検査へ進み、発達の時間へ進み、自己概念へ進み、最後には仕事の外にある生活役割までキャリアの中へ入っていった。
だからスーパーの理論を一枚の虹の図だけで理解するのは、少し惜しい。
彼が残したものは「人生は五段階で進む」という完成した答えというより、人と仕事の関係を、一時点ではなく時間の中で見なければならないという見方だったのだと思う。