Hegelroom / Person 007

Charles Robert Darwin

博物学者 / イギリス / 1809–1882

22歳で世界を見て、50歳になるまで答えを育てた。

1850年代のチャールズ・ダーウィン
Maull & Polyblank / Wikimedia Commons / Public domain
1809Born
1882Died
73Age
博物学者Field

02 / Profile

チャールズ・ダーウィンとは?

チャールズ・ダーウィンは、自然選択による進化の理論で知られる19世紀イギリスの博物学者である。22歳でビーグル号に乗り、帰国後は標本、読書、実験、手紙を通して考えを育て、50歳で『種の起源』を刊行した。

生誕
1809年2月12日
死去
1882年4月19日
年齢
73歳
出生地
シュルーズベリー(イングランド)
活動地域
イギリス、南アメリカ、ガラパゴス諸島
分野
博物学者、地質学者、進化研究

03 / Life

一人の人生を読む

医師の家に生まれ、医師にはならない

1809年2月12日、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)はイングランドのシュルーズベリーに生まれた。父ロバートは町で診療する医師で、祖父エラズマスも医師であり、詩人、自然哲学者として生命について考えた人物だった。母スザンナは陶器事業で知られるウェッジウッド家の出身である。ダーウィンが8歳のときに母は亡くなり、その後は姉たちも幼い弟の生活を支えた。

16歳になると、兄エラズマスとともにエディンバラ大学(University of Edinburgh)で医学を学び始める。だが講義にも臨床にも自分の進路を見いだせず、正規の勉強の外で海の生物を調べ、標本を扱う時間が増えていった。二年ほどで医学の道を離れたものの、次に何になるかはまだ決まっていない。父は聖職者になる道を考え、1828年、18歳のダーウィンはケンブリッジ大学クライスト・カレッジ(Christ’s College, Cambridge)へ移った。

ケンブリッジで彼を自然史の仕事へ引き寄せたのは、植物学者で聖職者でもあったジョン・スティーヴンズ・ヘンズロー(John Stevens Henslow)である。ダーウィンは昆虫採集に熱を入れ、ヘンズローと歩きながら植物や地質について学んだ。卒業後の1831年、世界周航へ向かう測量船で、船長の話し相手を兼ねて自然史を観察できる若者を探しているという知らせも、ヘンズローを通じて届く。父は当初この航海に反対したが、母方の叔父ジョサイア・ウェッジウッドの説得を受けて同意した。

1840年頃、ジョージ・リッチモンドが描いた若いチャールズ・ダーウィンの水彩肖像
航海から帰国して数年後、31歳頃のダーウィン。ジョージ・リッチモンド画、1840年。Wikimedia Commons / Public domain

22歳、船に仕事場を持つ

1831年12月、22歳のダーウィンを乗せたビーグル号(HMS Beagle)はイングランドを出航した。約5年の航海で長く時間を費やしたのは南アメリカであり、船が沿岸を測量する間、ダーウィンは陸へ上がって地層を見て歩き、化石、岩石、植物、動物を集めた。標本は記録とともに箱へ収め、ヘンズローらのもとへ送り返す。船上で完結する仕事ではなく、遠い場所で採ったものを、本国の人々の知識につなぐ仕事だった。

地震で土地が隆起する現場を見て、アンデスでは海の生物の痕跡を高地に見つけた。南アメリカで掘り出した大型哺乳類の化石は、同じ地域に生きる小型の動物との関係を考えさせた。1835年に滞在したガラパゴス諸島では、島ごとに生物が少しずつ異なることが記録に残る。航海そのものは後に、ダーウィンが自分の生涯で最も重要な出来事と振り返る経験になった。

海上を進む測量船ビーグル号を描いた1841年の水彩画
ビーグル号を描いたオーウェン・スタンリーの水彩画、1841年。ダーウィンが乗った第二次航海の後、第三次航海中の姿である。Wikimedia Commons / Public domain

ただし、航海中にガラパゴスのフィンチを見て、進化の仕組みを一度に理解したわけではない。当時の彼が島ごとの差に強く注意したのはマネシツグミであり、のちにフィンチと呼ばれる鳥の標本は別々の仲間だと考えていた。採集物の意味が変わるのは、1836年に帰国し、それを専門家へ渡してからである。

帰国した標本が、別の意味を持つ

ロンドンで鳥類学者ジョン・グールド(John Gould)が標本を調べると、ダーウィンがミソサザイ、アトリ、シメなどと分けていた鳥は、互いに近縁な一群だと分かった。ダーウィンは採集者だったが、すべてを自分で分類できたわけではない。グールドの鑑定によって、異なる島に暮らす近縁な鳥の差が、新しい問いとして戻ってきたのである。

帰国したダーウィンはすでに、標本や航海中の手紙によって博物学者の間で名を知られていた。地質学と動物学の成果をまとめ、専門家と手紙を交わす一方、1837年、28歳で「種の変化」を考える私的なノートを書き始める。そこには枝分かれする線とともに、英語で「I think」と小さく書かれた図がある。生物を固定した階段ではなく、共通の祖先から分かれていく関係として捉えようとした、思考の途中の線だった。

ダーウィンが1837年のノートに描いた、I thinkの語で始まる枝分かれ状の系統樹スケッチ
1837年のノートに残された「I think」の系統樹スケッチ。完成した説明図ではなく、種の関係を考えていた過程が見える。チャールズ・ダーウィン / Wikimedia Commons / Public domain

翌1838年、29歳のダーウィンはトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)の『人口論』(An Essay on the Principle of Population)を読んだ。生物は増える力を持つ一方、すべてが生き残り繁殖できるわけではない。その状況で個体の違いが残り方を左右するという考えが、自然選択の着想を形づくる契機になる。それでも、考えを得たことと公に説明できることは、彼にとって同じではなかった。

結婚し、家の中に研究を置く

1839年1月、ダーウィンは従妹のエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood)と結婚した。夫妻には十人の子どもが生まれ、そのうち三人は幼くして亡くなっている。1842年、一家はロンドンを離れ、ケント州の村にあるダウン・ハウス(Down House)へ移った。ダーウィンは33歳で、同じ年に自然選択について35ページほどの短いスケッチを書き、1844年にはさらに長い原稿を用意した。

ダウン・ハウスでは、書斎だけが研究室だったのではない。庭や温室で植物を育て、ハトやミミズを観察し、子どもたちにも反応を確かめ、郵便で届く標本や質問に返事を書く。エマは原稿を読み、子どもたちも観察や実験を手伝った。使用人によって日々の家事が保たれ、友人や各地の研究者との手紙が外の世界を家へ運んだ。

椅子に座る33歳のチャールズ・ダーウィンと幼い長男ウィリアムを写した1842年のダゲレオタイプ
33歳のダーウィンと長男ウィリアム、1842年。ダウン・ハウスへ移った年に撮影された、家族とともに写る唯一の肖像として知られる。撮影者はアントワーヌ・クローデと推定。Wikimedia Commons / Public domain

この生活には、原因の定まらない体調不良も入り込んでいた。吐き気、頭痛、疲労、めまいなどの症状が繰り返し現れ、予定は健康状態に合わせて組み直された。1851年には、10歳の娘アニーを病気で失う。家族の記録には深い悲嘆が残るが、その死だけでダーウィンの宗教観の変化を説明することはできない。研究を続けた家は、子どもの成長も喪失も起きる生活の場所だった。

書かずにいたのではなく、別の仕事もしていた

1840年代に自然選択の概要を文章にしてからも、ダーウィンはそれをすぐ出版しなかった。種が変化するという説明には、観察例を並べるだけでなく、変異がどのように受け継がれ、人為選択と自然界の選択がどう関係するかを示し、予想される反論にも答える必要があった。家畜や栽培植物について情報を集め、1850年代にはフジツボ類の分類研究にも長い時間を使った。

手紙は、この時期の研究を支える道具だった。飼育家や園芸家には変異について尋ね、各分野の専門家には標本や用語を確かめ、友人の地質学者チャールズ・ライエル(Charles Lyell)や植物学者ジョセフ・フッカー(Joseph Hooker)には考えを読んでもらう。ひとつの家に留まりながら、郵便を介して観察の範囲を広げていったのである。

49歳、マレー諸島から届いた原稿

1858年6月、マレー諸島で採集していた博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)から論文が届いた。そこには、環境の中で有利な変異をもつ個体が残るという、ダーウィンの自然選択に近い考えが記されていた。49歳のダーウィンは原稿をライエルへ送り、自分が長く温めてきた内容をここで公表することが、ウォレスに対して公正なのかと相談した。

ライエルとフッカーは、ダーウィンの過去の草稿と手紙、ウォレスの論文を一組にして発表する方法を整えた。1858年7月、二人の自然選択に関する文章はロンドン・リンネ協会(Linnean Society of London)で共同発表される。ウォレスの到達は出版を急ぐ直接の契機になったが、ダーウィン一人の先取権を守る形ではなく、二人の仕事を同じ場へ出す形が選ばれた。

50歳、『種の起源』を世に出す

共同発表の翌年、ダーウィンはそれまで計画していた大部の著作をいったん置き、内容を圧縮した本を書き上げた。1859年11月、50歳で刊行したのが『種の起源』(On the Origin of Species)である。生物の個体差と生存・繁殖の差が世代を重ね、種の変化へつながるという自然選択の考えを、多くの観察と推論によって示した。

1859年に刊行されたチャールズ・ダーウィン著『種の起源』初版の扉
『種の起源』初版の扉、1859年。題名には「自然選択による種の起源について」と記されている。ジョン・マレー(John Murray) / Wikimedia Commons / Public domain

この一冊で仕事が終わったわけではない。ダーウィンは反響と批判に応じて版を重ねながら、ランの受粉、家畜と栽培植物の変異、性選択、人間の由来、感情の表現、食虫植物、植物の運動へ研究を広げた。1871年には『人間の由来』(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)を刊行し、人間もまた他の生物と切り離されてはいないことを論じた。

72歳、地面の下を観察する

1881年、72歳のダーウィンは『ミミズによる腐植土の形成』(The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms, with Observations on their Habits)を出版した。ミミズが土をのみ込み、排出し、地表の物を少しずつ埋めていく働きを、長年の観察と実験から記した本である。世界規模の航海を経験した青年は、晩年には自宅の地面で起きる小さな作用を測り続けていた。

1882年4月19日、ダーウィンはダウン・ハウスで死去した。73歳だった。家族は地元での埋葬を考えていたが、科学者や議員らの働きかけを経て、4月26日にウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)へ葬られた。

医師の家から医学の外へ出て、船で集めた標本を他者に託し、家族の暮らす家で観察を重ねる。その途中には病気と喪失があり、同じ考えへ独立に近づいた研究者からの手紙もあった。ダーウィンの理論を支えた二十数年は、何も起きなかった待ち時間ではない。場所を移し、人とつながり、対象を変えながら、見たものの意味を何度も確かめ直した時間だった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1809年2月12日0歳

    イングランドのシュルーズベリーに生まれる

  2. 182516歳

    エディンバラ大学で医学を学び始める

  3. 182818–19歳

    ケンブリッジ大学へ移り、博物学者ヘンズローとの関係を深める

  4. 183122歳

    ビーグル号で約5年間の航海へ出る

  5. 183728歳

    種の変化について私的なノートを書き始める

  6. 183829歳

    マルサスの『人口論』を読み、自然選択の着想へ進む

  7. 183929歳

    エマ・ウェッジウッドと結婚する

  8. 184233歳

    自然選択を含む短いスケッチを書き、家族でダウン・ハウスへ移る

  9. 185142歳

    10歳の娘アニーを失う

  10. 185849歳

    ウォレスの原稿を受け取り、自然選択について共同発表する

  11. 185950歳

    『種の起源』を刊行する

  12. 187162歳

    『人間の由来』を刊行する

  13. 188172歳

    『ミミズによる腐植土の形成』を刊行する

  14. 1882年4月19日73歳

    ダウンで死去。のちにウェストミンスター寺院へ埋葬される

05 / Works

主な著作

01

自然史・進化論 / 1859

『種の起源』(On the Origin of Species)

自然選択によって種が変化するという説明を、20年以上の観察と検討を経て公刊した代表作。

02

進化研究 / 1871

『人間の由来』(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)

人類の由来と性選択を扱い、『種の起源』後も理論を広げ続けたことが分かる。

03

土壌・動物研究 / 1881

『ミミズによる腐植土の形成』(The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms, with Observations on their Habits)

晩年まで、小さな変化が長い時間に及ぼす作用を観察し続けたことを示す著作。

06 / Conditions

チャールズ・ダーウィンの人生をつくったもの

  • 01

    観察を持ち帰る

    航海中に答えを完成させるのではなく、標本と記録を持ち帰り、専門家の知見を借りながら意味を読み直した。

  • 02

    家族のいる研究室

    妻エマ、子どもたち、使用人が暮らすダウン・ハウスは住居であると同時に、実験と手紙の往来が続く研究の場だった。

  • 03

    病気に合わせた仕事

    原因の定まらない慢性的な症状を抱え、生活の場所と日課を組み直しながら研究を続けた。

  • 04

    他者と公表する

    分類を担った専門家、助言する友人、独立に同じ考えへ近づいたウォレスとの関係が、理論の形成と発表を動かした。

07 / Read more

もっと知る

一次資料

『ビーグル号航海記』(Journal of Researches)

チャールズ・ダーウィン

航海中に何を見て、どのように記録したのかを本人の文章から読むための入口。

著作

『種の起源』(On the Origin of Species)

チャールズ・ダーウィン

理論の要約だけでなく、ダーウィンが証拠と反論をどう並べたかを読む。

アーカイブ

ダーウィン書簡プロジェクト(Darwin Correspondence Project)

家族、友人、研究者との大量の手紙から、研究が人間関係の中で進んだことをたどれる。